コラム No. 52

MAX JAPAN 2004、Flex

このドッグイヤーの時代に3ヶ月も前のカンファレンスの報告をするのも気が引けるが、触れずにWebを語るのにも抵抗があるので。2004年2月、Macromedia主催のプライベートカンファレンスが渋谷で開かれた。2日間、約40セッション、約3000名の集客。1企業で行う有料カンファレンスでは最大規模の一つだろう。「Web」というキーワードに関係するデザイナやエンジニア、それぞれのマネージャ達。ピアスからネクタイまで、これだけの客層を集めることのできる「場」は類を見ない。

個人的なベスト3について(この中での順位は無し):

A) 中村勇吾氏セッション
既にGoogleで探せば様々なコメントが見つかるが、インターフェースの考え方について、氏のコンセプト的な話。「こちら側」と「あちら側」を結ぶために、どのような思索が経られていくのか。機能提供だけで良いのかという問いかけと共に、鳥居が延々と続く写真やシナゴーグ(初代教会)の写真を大画面に映しながら、淡々と語る氏の姿は、もはや別世界の人のよう。Flashの可能性を誰よりも早く完成された姿で見せてきた氏ならではの世界と言える。パイオニアだからこそ見ることの出来る世界が実際にあるのだという実例だ。話を聞きながら、後付で理解することはできるが、あのように発想し、あのように実装し、あのようにクライアントと並走できるのは氏しかあり得ないのかも知れない、と感じてしまう。技術が成熟してから追いつけばよいという投資問題にすり替えて考えがちな頭をガツンとやられた感じさえした。先頭を走る者には、それに追いつこうとする者の視界にないモノが映っているに違いない。
B) 田中章雄氏の部屋
本当は2日目のキーノートに続くジェネラルセッションではあったけれど、田中CTO主催の「徹子の部屋」的な展開だったのでこう呼ぶ。4部構成で、最初の3部までが先端的な開発/適応事例先駆者を呼んでのトーク。最後は田中氏プロデュースの近未来の技術と心情との接点を描く短編映画(本当は3部構成で、最後の3部目に自分自身をゲストとしてトークしているという設定なのだろうけれど、別扱いした方が良いように思われたので4部とする)。
最初の3部の先駆者トークは、良くこれだけ事例を一同に集められたなぁと感じ入ってしまうもの。MM製品のβ版のお披露目から、ちょっと普通は思いつかないような活用方法まで。Flashを中心とした技術適応の幅広さを見せ付けられた。Flashの懐が深いのか、人間の感性にFlashがマッチしているのか、どちらか分からないが、色々な適応事例を見ているうちに、考え方に制限をつけているのは、人間の方かもしれないとも思わされた。
最後の短編映画。後で聞くと賛否両論ではあったようだが、私は涙腺緩みました。小学生の男の子が夏休みに田舎の祖父のところに泊まっている。虫眼鏡のようなモノで何かを覗くと、その構成要素情報を知ることができる。そうした情報を得るということと、その男の子の心情とが触れ合う。Webを通して私たちは多くの情報に接し、その洪水状態も当たり前になってきている。でも本来、情報ってもっと人間の「幸福」みたいなところと密接に繋がっていくべきモノなんじゃないだろうか。そんな問いかけともメッセージとも受け取れる映像が大画面で流された。
技術カンファレンスにおいて、このような映像を流すことの意味は何だろう。賛否両論の分かれ目はこの辺りに起因する。技術先行型の行き着く先に、人間を幸せにするゴールが間違いなく待っているのであれば誰も不安を感じない。でも、最近のWebでも家電でも議論されている「ユーザビリティ」とかの概念は、「現状はちっとも人間に優しくないよね」というのが出発点だろう。ならば、思いっきり人間の心情側に振れた時間や空間が技術カンファレンスにあっても良いのではないだろうか。少なくとも私は自分が何のために情報集積空間であるWebサイトを作るのを仕事にしているのか、足元を見直した。

C) Flex
事実上 MAX JAPAN 2004 最大の問題作といえるもの。Flex自体は少し前から技術情報は公開されているMacromedia社のSIer向けの戦略製品(技術)。MXMLというXML形式で記述したファイルをサーバに置き、そこにFlexが入っていればそれを swf(Flash) に変換してくれるというもの。今までとの最大の違いは、そのMXMLを記述する方法は通常のテキストエディタでもOKだという点。勿論専用のツール(コードネーム:BradyというDreamweaverライクな製品)は登場するが、Flashの開発現場にFlashというパーッケージソフトが不要になる。

MXMLというテキストファイルだけで管理できることのメリットは、SIerには絶大だ。まず、タイムラインという未知の概念を習得する必要がない、Flashというオーサリング環境の操作法を学ぶ必要もない。HTMLのformタグのように記述すれば、Flashの情報入力欄が出来上がるのである。そしてソースコード管理が、従来の手法をそのまま適応可能だ。Flashを特別視することなく、通常のプログラミング言語の一つとして管理可能だ。
最大の問題作と称する理由は、そのデモ内容。MAXの会場の中央部分で丸々2日間披露されていたのは、Acos(エイコス)というメインフレームの操作画面をFlexによって、Flash化したもの。メインフレームの画面そのものの見た目。黒地に緑の文字。マウス操作は想定されていなくて、基本的にファンクションキーと矢印キーとタブによるテキストフォーム移動。今の若い方々にはWindowsが立ち上がる前にF2とか押したときのみに見ることができるDOS設定画面といった方がイメージし易いだろうか。そのインタフェースが古臭いとか言うのではない。マウスがない時代に作られた画面なのである。それがそのまま再現されている。メニュー画面で数字がふられているが、その数字やその文言をクリックしても何も起こらない。下にあるテキスト入力欄にその数字を書き込むか、割り当てられたファンクションキーを押下することで次の画面に移る。この画面がFlashでできている。右ボタンを押すとFlashの設定メニューが当たり前のように表示される。
更に驚きなのは、そのデモの作られ方である。メインフレーム時代も画面設計というのは、内部のデータ処理ロジックの記述とは別個に進められた。画面定義ファイルというユーザインタフェース(UI)部分だけをまとめたファイルでデザイン(設計)している。その画面定義ファイルをMXMLに自動変換したのだ。これはSIerにとってとてつもないインパクトがある。過去の、もはや捨て去るしかなかった画面定義ファイルがそのままMXMLに変換できて、Flashという最新技術をまとうことができるのだ。既にメインフレームとWebシステムとを融合させる部分はできている。UI部分だけがネックになっていたといっても良い。様々な記述方法が存在する(デザイン要素が複雑に絡み合っている)HTMLに、従来の画面設定ファイルを自動で変換することには無理があったし、陳腐なHTML画面を作れてもマーケティングインパクトに欠けるのだ。それがFlexのおかげで可能になり、スポットライトを受けるに値するように見えてきた。
但し、問題点だという理由はここにある。近年、デザイナへの投資を渋り、社外に出ないようなイントラ系サイトの開発はエンジニアだけで行われることが少なくない。こうした開発エンジニアがデザインの教育を受けていないばかりか、デザインそのものに興味がない場合も稀ではない。こうした状況下で、ただコード(MXML)を記述するだけでFlexがswf(Flash)を生成できてしまうインパクトに頭を抱えてしまう。コードで書けるということはコピーペーストがいとも簡単にできるということであり、HTMLのデザインガイドを遵守するようなこともできないエンジニアがそうした武器を手に入れた場合何が起こるのかは火を見るより明らかだろう。
メインフレーム時代は、多々ある制約の中で少しでも使い勝手を考えるということがその画面設計スキルであった。方眼紙に何度も試作してそれから座標情報をベースにコーディングしていく。不自由な中にもUIに対する敬意が含まれていた。しかし今はそれはない。便利なツールのおかげで、ただドラッグするだけでいとも簡単にUIを生成できてしまう。デザインやユーザビリティを考えなくても画面は作れる。
FlashをFlexに押し上げた力は、多分正統な時流と呼べるだろう。魅力的といっても良い。しかし、それを受け入れるだけの素地がエンジニアにはまだ備わっていない。その意味でFlexはパンドラの箱だ。中に未来のカケラがあろうとも、それを見るまでに悪しきモノが山のように出てしまう予感がする。 MAXの会場で、そのデモを見てから暫く考え込んだ。そのデモ自体には文句のつけようがない。見事と思う。しかし、そこから派生するFlashアプリは本当に「Flash」なのか。「豊かなユーザ体験を提供するFlash」なのか。一晩考えて出た結論は、「NO」だった。Flexが市場に出たあたりから、swf=Flashという図式が崩れるのかもしれない。「Flash」という言葉はもはや単一企業の製品や技術を指さなくなるかもしれない。ティッシュが米国では某製品名で呼ばれるように。何でコーディングされたかがその価値を決めない時代に入ろうとしている。どれだけユーザのことを考えて開発されたのか、それがWebアプリの基準になっていくのかもしれない。
「Flashかどうか」ではない、「良いFlashかどうか」。そう「良いWebシステムかどうか」に原点回帰しているだけなのか。昔大きらいだったレポートの名が浮かんでくる、「Flash 99% Bad」。

様々な懐かしい顔や大御所さん達との出会い、立ち止まること、先を見回すこと、様々な機会を与えてくれた MAX に感謝。

以上。/mitsui

コラム No. 51

睡眠学習

Ridualの販売(2003/6)を開始し、オンライン販売開始(2004/2)に至るまで学校行脚を幾つかしていた。専門学校から大学まで。久々の「学校」である。特に専門学校生に対して、Ridualを語るとき面白い感慨に触れることができた。

高校卒業したてから数年のレンジの学生が集う。勿論今まで話をさせて頂いた中で一番若い年齢層。Ridual はWeb制作のプロを対象ユーザとして開発しているので、そもそもかなりの場違いだ。更に学校側の都合もあって、決してWebを指向した生徒さん達だけではなかった。斜陽とまでは言わないが、最近の沈滞気味のWeb業界を端的に感じる。人気はやはり3Dからゲームの方向だそうで、そちらをメインにしている若者が多かったと聞いた。人数的には50人前後。そんな彼らを相手に、1.5時間から3時間程度の話をする。

講義が始まる。最初は、そもそも”NRI(野村総合研究所)”の名さえ知らないという点から、生徒達が少し興味をもって視線を注ぐ。「”研究所”って何屋さん?」が本音か。しかし、私の語り口自体が余り親切でないのかもしれないが、徐々に脱落していく。早く時間経たないかなぁ、他の事しよう、あ~つまんねぇ、様々な本音がそのまま顔に出て来る。いたって正直。睡魔と格闘もせずそのまま腕を組んで寝込む子もいるし、それに気がつき私に気を使って起こして廻る先生方がいる。ただただ睡魔と戦って頭を上下し続ける子や、ただ姿勢を保つだけに集中している子や、いかに寝ていることを他に悟られないでいられるかに長けている子もいる。決してまじめな方ではなかった自分の今までの学生生活を凝縮したような光景だ。それにしても教壇というのは何でもよく見えるものだ。先生にはバレないなんてことは実はなかったんだろう。過去の先生方に「すみません」と心の中で謝ってしまった。

勿論全員が退屈し切っていた訳ではない。2~3割の生徒が頬杖をつきながらも興味を持ち続けて終了の時間を迎え、どの学校でも最低1割程度が目を輝かせてこちらを見つめてくれた。この辺りは狙い通りといった感じだ。Ridualは決して万人受けするツールではない。サイト内の導線を視覚的に捉えたり、使用しているリソースを一覧表でチェックしようとする者が大多数になるはずがない。それはどこまでWebサイト制作を長期的に見ているかで決まってくる。一回きりの制作で満足する人には、Ridual的な考え方は回りくどくて面倒なだけだろう。思いついたアイデアが「揮発」する前に形にして行く、そんなやり方の方が直感的だ。しかし、それを繰り返す時に無駄な作業が発生していく。だから作業の標準化やワークフローという考え方が必要になってくる。誰が誰と組んでも、あるレベルの品質は保証できるような体制つくり。自分の個性はその上に築いて行くモノ、という段階的戦略。そこを指向するのは1割程度だと考えている。

20歳前後の若者にそんな話をする。くどくどと説教する爺さんになった気分だ。まだ走り出してもいない子に、こけた時にはどうすれば良いかを諭す役。話しながら場違いを自覚する。でも、1割の子達の視線が熱い。真剣に見つめてくれる。身が締まる、背筋がシャンとする気分。私が話す言葉が、種となり、いつか芽を出し大きな見事な実をつけるかもしれないというワクワク感。見事な実がなっても、当人達は私の話を聞いたことも憶えてもいないだろうけれど、そんな自分の子育てに通じるような教育の現場。でも、そんな状況から、いつか今の不毛な作業を強いるWeb開発環境が変わっていくだろうという期待感。万感の思いを勝手に夢想しながら、声をふりしぼって話をした。

何回かの休憩時間の間にも、人間観察をする。つまらなかったとアクビをする子もいるけれど、今話されたことは何だろうと考え込む子もいる。今までWebデザインで学んできたことは、多分レイアウトとかグラフィックの話が中心だろう。Ridualの文脈ではそこには触れない。そもそもRidualはページ内のデザインには原則的にはノータッチのツールだ。そこは既存のツールに全て任せている。その辺りの接点が混乱を招いているようだ。「こんなこと知って、何が”デザイン”できる訳?」と自問自答している。悩んでいる子は輝いて見える。

そんな禅問答に囚われない子もいる。Ridualのダウンロード機能を説明すると、まずそこから入ってくる。休憩時間に入って数分すると、「すっげー全部ダウンロードできちゃったよ」と歓声が上がる。本能に任せた画像をその場で落としてきていた。男子生徒が集って喜んでいる。別に不謹慎だとか思いもしないし、非難もしない。Webに興味を持つキッカケは千差万別だし、そこにフィルタを置くことにも意味を感じない。問題はその子がどこで満足するかなんだと思う。興味のままに画像を集める。それを整理したくなり、効率的な収集保存管理方法を模索する、そんな学習ルートもアリだろう。休憩時間になるなりそれを試そうとした子は、私の半ば抽象的な話を聞きながら何をどうやったら、今の話を自分のフィールドに持ち込めるのかという応用を思案していたのだ。

Web上の新しい技術を知るたびに、それを自分の仕事にどう適応できるのかを考える力は必須の能力。「自分のできること」を「今できること」に限定して考えることは誰もが陥り易い落とし穴だ。エンジニアでもデザイナでも、そんな考えの虜になっている人は山のようにいる。「今自分にできないこと」は無価値であると判を押し無視する。そのうちに自分自身が時流から取り残され無視されていく。方や「今自分ができないこと」は学べばよいのだと踏み出す者がいる。そうして踏み出し続ける者たちの中に、ただ新規さだけに囚われない「選球眼」が育まれる。汗し踏ん張る者の選球眼は鋭く研ぎ澄まされ、手を汚さず推測の評価を下す者は、ネット裏で嫌われる解説を繰り返す。ネット裏で輝く人もいるけれど稀だ。主人公は泥だらけのフィールドに居る。そんな主人公(ヒーロー)達が目の前の若者から生れる出るのかもしれない。

久々の教育の現場は、私にとって刺激の連続だった。図書館で調べるしかない時代に学んできた私にとって、若い学生の反応も刺激の一つだ。私の時代でも少しは兆候があったが、学生は語る者の肩書きなんぞに目もくれない。話が面白いか、興味が持てるかだけが決め手だ。ネットが商流の中抜きを進めているように、知識や技術の伝達経路でも同じことが起こっているように感じる。ありきたりの知識は、検索すれば出てくる。大事な「時間」を使って聞く価値がある「授業・講義」なのかどうか。壇上に立つ者の覚悟が益々問われているのだろう。私は所詮この数時間のピンチピッターという言い訳を確保しながら、そんなことを考えていた。

睡眠学習をやり遂げた学生に対しては何の怒りも感じなかった。睡魔を防ぐ手助けとして、コックリ比率が上がると実習を交えて、少しの手助けをしたが、寝る子はそのままにするしかない。私のプレゼン能力にも左右されることだから、一概に責める訳にも行かぬ。でも多分そんなことより、少し羨ましかったのだと思う。学ぶだけで一日を終えて良い時代。学生だけの特権。冬に困ろうが夏に遊び呆けるキリギリスへの羨望。いつか蟻のようになるのなら、許される時に精一杯羽を広げて寝てもいいんじゃないか、そんな思いが消せなかったのかもしれない。でも、いつか眠ることも許されない現場に駆り出される。そして、それを充実と呼ぶ。そう呼べる現場で働きたい。

Ridualの開発コンセプトや生い立ちを話しながら、Ridual自身の能力がまだ満足できる域まで至っていないことにも触れる。でも始まりのないところからは何も生れない。Ridualはもう直ぐ1歳になろうとしている。V2の仕様と現在格闘中だ。夢だけはどんどんと広がってる。でき得るだけ早くその姿もレポートしたい。

Webについて大方のことは分かっている錯覚に落ちっていたことを最近痛感している。学ばなければいけない事が雪崩のように押し寄せている。平静さを保っているかのように見えるWeb業界が不気味に感じる程だ。キーワードは「アクセシビリティ」。今までのやり方が通じない。教える立場に立てない程足元が揺れている。最近の学生はなどと言っていられない。私も学ぶ側だ。

以上。/mitsui