• コラム No. 56

    ネットは魔界か? 2004年6月佐世保。また忘れてはいけないことが起こってしまった。小学生が自分の同級生に刃物を向ける。まだまだ良く分からないことが多いので直接的に問題として取上げることは避けたい。驚きや悲しさや様々な想いが、この一ヶ月間頭の中をグルグルと回っている。どう整理すべきなのか、頭が拒否しているようにも感じる。理由は一つ。我が子が被害者にも加害者にも、なって不思議でないと感じているからだ。我が子に限ってなどとは夢にも思っていない。 我家には、中一(12)と小五(11)の子供がいる。さしたる問題児ではない。事件を報じる新聞の一面の見出しを見て、二人ともが絶句した。当然ながら、この問題は家族で話し合った。別に結論が出る訳じゃない。原因探しをしている訳ではない。こんなことが起こってしまった今の日本をどう思うかを、それぞれから話す。日頃から議論できるように育てて来ていないせいもあって、教科書的な答えや、当事者固有の問題のような意見が多かった。学校での取上げ方も聞いたが、担任の個性がそれぞれ出ている程度にしか感じない。でも教育の現場の混乱は伝わってくる。 普通に入手できる情報には目を通すようにしている。様々な意見があるが、この問題の本質を深く考えている人達には一つの共通概念があるように思う。それは、普通に育ち普通に遊んでいけた子供が、こうした道に進んでしまったことに対して自分自身を責めているような部分だ。原因探しをして、防止に努めるのも勿論大切だ。けれど、その前に、何故救えなかったのか、何故押し留められなかったのか。直接当事者達に接することができない人達でも悔しく思っている人達が沢山いる。実際に何かできた訳ではない。距離的にも離れている。しかし、「子供たち」に何かしらできたのではないのか。当事者や社会を語る前に、自分に向き合っている人達がいる。 子供の問題は大きい。自分の子供たちが10代になる前あたりから、「子育て」の大変さを改めて感じている。子供が加害者になる事件も増えたが、親がその子に対する加害者になる事件も増えた。報道のたびに、「親らしさ」も問われる。子供を持つ資格といった観点でも話される。背筋を正さないと読めない話が多い。しかし、敢えて反論すると、親もある日突然「親」になる訳ではない。子供と一緒に育っている。様々な取るに足りないような会話を重ねる中で、親の自覚が生まれ、親としてすべきこと、してはならないことが心に芽生えてくる。そして、それには時間がとても必要だ。けれど、そうした時間を待ってくれる程、今の社会はゆっくりと進んでいない。 子供たちと接する時間を取るように頑張っている。頑張らないとそもそも時間が取れないし、時間をとったからといって、タスク管理表でチェックしていくようには問題は解決されない。正直「面倒くさい事」だし、誰かがやってくれたら嬉しいとさえ感じてしまう事柄だ。仕事の管理の仕方は通じない。答えが見えているのに、自分の血を分けた子が気がついてもくれないというイライラは、情けなくも感じる。答えを示しても、それはその子にとって「答え」にはならなかったりする。本人が気付くこと自体が「答え」だったりもする。勿論、逆に教わる事だって山のようにある。自分が教える立場にあるなんて奢りは通用しない。 充分なコミュニケーションをとっているとは言えない我家だが、一つ気がついたことがある。子供が望むことは昔から変わっていない。「私の話を聞いて」、「私と真正面から向き合って」という点だ。とことん付き合う、これが求められている。そう、昔ガクラン着ていた頃に自分自身が「大人」に求めてたことだ。必死に自己主張する我が子の姿は、そのまま当時の自分の姿だ。自分の経てきた道を、我が子が少し違った角度で通っていると感じるのは、中々感慨深い。そして、向き合えたと感じられる時間が共有できたとき、子供達は何かしら晴れ晴れしい顔をしている。 キチンと向かいあって会話をすることは難しい。ただ話をしたり、説教することの数倍のエネルギーが必要だ。口は一つでも持て余すのに、耳は二つあっても尚足りない。でも互いが「聞く」という姿勢を保つことの大切さは、今の時代特に大切だと日々感じさせられている。聞くには聞く側の忍耐も必要だし、話す側の勇気も要る。しかし、子供達の友達と話していても、彼らが本音を語りがっているのは感じる。誰も想いを心の奥底にしまいこんだまま進めない。王様の耳はロバの耳と叫べる「穴」が必要だ。親や大人は時として、そんな役を担わなくてはならない。しかも喜んで(ここが唯一無二の「その子の親」という立場に置かせて貰っている醍醐味だ)。 ネットの影響が語られる。ネットに書き込む傾向が問題になっている。ネットという「特殊な環境」が子供たちに何を与えているかという論点もよく目にする。そんな「仮想」の世界ではなくて「リアル」な世界の体験を優先しろと指導もされる。しかし私には違和感がある。 ネットで語られる言葉は、「リアル」ではないのだろうか。書き込みする者も、それを読む者も、実在しないのか。「ヴァーチャル」という言葉を拡大解釈して、あたかも現実社会で起きていないような事柄だと考えるのは、旧人類だけじゃないのか。悪口を言う者も、それを読む者も、既に実在している。なのに、それにフタをして奇麗事を言っている気がしてならない。「ネットの世界では皆がオカシクなるのだから、本気で接する必要はない。そんなことは放っておいて、リアルのことに専念しなさい」って、何か変じゃないか? これは、まさに子供たちが忌み嫌う姿勢でもある。「タテマエ」や「取り繕い」に対する嫌悪感は、多感な子供達には大きい。目の前に見えている問題を直視せず、立場や習慣で処理することに怒りを感じるのは、今も昔も多分変わりない。変わってきたのは、その怒りの出し方だ。 ネットのなかった昔は、衝突した事柄に対抗するには、何かしら直接対決せざるを得ない状況にあった。でも今は選択肢が増えた。直接対峙するのは疲れる。そのエネルギーを、違う方向に向けることで、ウップンを晴らすことができる。例えば、ネットに書き散らすことだ。書いたり、話すことは、自分の中にある「何か」を吐き出すことであり、その「排泄」の効果は精神に影響する。理論上世界中の人が読める場所に書き散らすことは、沈黙の同意者が自分を取り囲んでいるかのような錯覚にも浸れる。「リアル」ではないというイイワケが、様々なブレーキを取り外し暴走し、暴走していることすら自覚できない。何に対して怒りを持っていたのかも、何から逃避しているのかさえ、見えなくなる。 更にネットを「はけ口」にすることを危険にしているのが、ネットの世界に「大人」が少ないことだ。ネット時代が一般的に幕開けして余りに歴史が浅い。経験則が成立していない。どうコミュニケーションしていいのか誰も見本を見せられない。しかし、大人は少ないだけだ、いない訳ではない。 私は個人的なことでも仕事でも、ネット上でよく「喧嘩」をする。全然大人じゃない。とことん話を詰めたいし、できるだけ端的に書くので、表現が強く、誤解も多いらしい。挨拶文も嫌いだし、書面と同じフォーマットでメールをやり取りする気持ちも端から理解できない。戦歴は人より多いだろう。後悔する事も、謝る事も多いが、和解に至ることも多い。 ネットのやりとりで、私は一つのルールを決めている、「ネットで起こした喧嘩はネット上で解決すること」。最終段階を越えない限りネットに踏みとどまることにしている。メールでもめた事柄を、「メールでは議論が発散するので、今度呑みに行きましょう」というソリューションはナンセンスだ。その場やその人との関係は良好化するだろうが、それでは解決になっていない。それは問題を先送りにするだけで次回への教訓もない。その場しのぎは「解」ではない。私はその時議論している事を解決したいだけでなく、ネットでの「よりよいコミュニケーション」の仕方を習得したい。ネットが、本音で語り合える場になることを願っている。 子供たちも、本音を言える場所を探して、ネットに行き着いたのではないだろうか。現実社会では言えない事を語れる場、逆に言えば、それ程子供たちの心の中に何かを叫びたい衝動があるのではないか。だとしたら、問題なのはネットではなく、現実社会だ。言いたいことが聞いて貰えない社会。大人でもそう感じている。子供たちが真っ先に純粋に反応しても不思議ではない。 先日、英教育研究所が子供のネット教育についてコメントを発表した。「子どもにチャットルームや電子メールの利用を一切禁止しても、ふさわしいインターネットの使い方について何ら教えることにはならず、むしろ将来的に直面する危険に対して無防備な状態を生み出すだけになる(Rebekah Willett氏)」。これは実は年齢的な子供についてのみ話しているのではないように読める。氏の指摘する「子ども」とは、我々大人のことではないのか。 ref) http://pcweb.mycom.co.jp/news/2004/06/08/004.html 人の命の重みを説きながら、高校生が殺しあう映画の縦看板が校門の横に立てられる。そうした映画が大きな話題になる。規則を破ったら根掘り葉掘り様々なことが聞かれるのに、大儀の説明もなく爆弾が落とされる。子供たちは馬鹿ではない。そんな矛盾には気がついている。そして、自分でも気が付かない心の奥で何かしらのイライラやモヤモヤが蓄積されている。ネットが魔界なのではない、現実が魔界なのだ。今ネットは現実魔界の排泄物を一手に引き受けているようなものだと捉えるべきではないだろうか。そう、憎悪も悪意も全て。根底に存在している善意とかが霞んで見えなくなるほどに。 人は人とコミュニケーションしなければ生きていけない。そして、人と人との交流の場では衝突も避けられない。様々な価値観があり、様々な人がいるのだから。しかし、その衝突を最小化する知恵はあるはずだ。その希望は捨てたくない。そのためには「上手に衝突する」しかない。衝突を避けるだけでは、知恵は育たない。そして、その知恵を子供たちにバトン渡ししてあげたい。 仕事を無理やり打ち切って、子供の寝る前に家に辿りつき、たわいない、本当に他愛無い会話をしながら想う、「何かできる」と、「何かしなきゃ」と。 以上。/mitsui

     
  • コラム No. 55

    本は解答自動販売機か? 情報がWebで簡単に引き出せるようになった今、「本」の意味とか価値って一体何なのだろう。実のところ、私自身は本に囲まれている状況が大好きだ。太いネットにつながっている状況と比べても、好みとしては本の方だと言える。情報検索も、ほぼ習慣的に本を探してしまって、横で若手がグーグッ(Google)ているのを見て苦笑することはよくある。 母が司書だった関係もあり、書籍の山の中に入る経験は小さいときから多々あった。しかし、文字を読む経験は人より多くは積んでいない。手塚治虫に出会ってから、「絵本」にしか興味がなかった。文字を通して読み解いていくプロセスよりも、視覚的に直接訴えられる方が心地よいと感じた(この辺りが稚拙な文書しか書けない理由かもしれない)。 少し古くなった本特有の「匂い」も、好きではあるけれど、ハウスダストのアレルギーに微妙に触れるようで、満喫することもできない。大きな本は、持ち歩くのに苦労するあの重さが嫌いだし、読み続けた本の手の触れる部分が色濃くなっていくのも、カバーの縁がささくれ立っていくのも気になる。 なのに、本に囲まれている状況は好きだし、なんだか安心できる。何故なのだろう。そこに書かれている情報以上のものを身近に置いているという気持ちのような気がしている。 本に求めるものを、現在のWebデザイン系定期雑誌が端的に現している。淘汰の結果、今や二誌(或いは二社)に絞られた状況で、この二つが中々好対照で面白い。一つはとにかくTipsに肩入れしている。読んで直ぐに使える情報。他方は、理論的な話や哲学的な色彩も含む。誰もが直ぐには使える訳ではないけれど、記憶に残っていればいつか花を咲かせる種のような話も多い。 本を求めるとき、この二つの方向性で探す。JavaScriptやActionScriptの記述で困ったとき、そのまま使えるコードが欲しい。何冊もめくり、Webを歩き回って拾い集める。火が付き始めたプロジェクトで、こんな方法で難を逃れたこともある。けれど、少し余裕があるときには、「考え方」そのものに触れようとしている自分に気がつく。決して即効性の解答を求めていない。そして、どちらが記憶に残っているかというと、圧倒的に後者であることが多い。 更に考えると、得られたものの再利用の局面でも面白い傾向がある。Tips集は、その技術が欲しいのだけれど、本当に欲しいのはコードであって解説文じゃない。しかも本の印刷されたものではない。CD-ROMに収録されている、そのままコピーペースト可能なモノが欲しい。そして、それは大抵の場合、Webの何処かにも埋もれていたりする。「本」という形が必須だとは言い難い。収録してくれている本にも愛着は薄い。 では、理論や哲学論的なものはどうだろう。アイデアという面で見れば、こちらも本の形をしている必要はない。引用などを考えると、シンプルなテキスト状態でネットに置いてある状態が一番嬉しい。 でも、本の形にして手元に置いておきたくなる情報がある。そのアイデアや熱い言葉をもう一度思い出すときに、その本という形のお世話になったりする。ページ数は覚えていなくても、「あの写真とこの表がこんな風に配置されたページの上から1/3あたり」という憶え方をしている情報も幾つかある。その写真を思い出そうと頑張っていると、その文書そのものが頭の中にパッと浮かぶときもある。これは「固定」されているとか「制約」されていることが、何か記憶の引き金になっているのかもしれないし、Webの日々更新されるバナー広告に代用させることはできそうにない。上手く書けないけれど「ページ」という単位が記憶しやすく刷り込まれているのかもしれない。本の形をしている必要はないかもしれないが、本の形をしていることで助けられる部分も多い。 一度触れた考え方などを何度も思い返すようなことを考えると、「本たるべき『本』」とは、実用書的な部分だけではなく、理論や考え方や熱意等がある程度含まれているものであるように感じる(Tipsのありがたさも必要性も否定はしない)。なのに、最近目に付くのは、やはりTipsの比重が高い。編集者とも話す機会があるのだけれど、読んで直ぐ使えるものでないと商品価値がないと言い切る方も多い。 Webの開発手法論にしても、客観的情報だけとか答えが欲しいと言われる時もある。読者に考えさせるな、読者が読んで直ぐに真似できるものが一番、という文脈だ。けれど、私は著名人の話を読んだり聞いたりしても、その通りにしたいと思ったことは余りないし、答えが欲しい訳じゃない。サイトマップを模造紙四枚張り合わした大設計図にびっしり書いたり、プロジェクト部屋を作って常に情報を張り出したり。様々な実話に接したけれど、関心も感動もするけれど、興味を持つのは、どうしてそうしなければならないのか、何がしたくてそんなやり方を採用するのかという原点部分だけだし、自分とその著名人との差異を考えるのが楽しい。そんな見方が可能なのだという驚きを期待している。 でも、そんな感覚の方が稀なのかもしれない。本に対してだけでなく、相談でも先ず解答を求める人が増えている。自分の状況を充分に説明することもなく、「どうすれば良いと思いますか」とか「何か良いアイデアもらえませんか」と言い寄られる。「考えるって、実は楽しいことですよ」と悩むことを薦めてみたりする(そんなに冷静には言わないけれど)。 悩んでいるときは本人にとって辛い時間かもしれないけれど、あとで考えると成長みたいなものが見える時でもある。そう考えると、深く悩むネタをもらえることも一種の恵みだ。だとしたら、答えばかりが並んでいる本ではなく、自分が考えもしなかったことに眼を留めるようにしてくれる本はかなり貴重なのではないだろうか。 そもそもWebサイト開発には「解」なんてなくて、悩む入口だけが一杯あるのかもしれない。ユーザビリティとかアクセシビリティなんて、根本的には、そういった話だ。どこにでも適応可能な技術Tipsは少なく、考え方の基準や原点こそが使いまわせる。 Webという圧倒的な情報蓄積システムがここまで育っている現状で、本が挑むターゲットって「便利さ」なのだろうか。即席インスタントラーメンよりも、料理を作るプロセスを味わい楽しむ人もいるし、その数は実は多いように思える。実際、Webにない本の武器は、幾重にも重ねられたであろう編集プロセスとか出版(情報発信)に伴う覚悟のようなものではないだろうか。それが活かせるのは、枝葉のTipsの方向ではなく、根底の思考的基盤の方向のような気がしてならない。 出版不況の数字は何度も見るけれど、実体験としては薄い。立ち寄る本屋は常に客がそれなりにいるし、電車の中の読書家も昔より多い気がする。結構な分厚い本を熱心に読む姿に、老若男女の隔てはない。「情報」に皆が飢えているというお国柄は昔とあまり変わっていないのだろう。なのに、本が売れないとしたら、売られているモノと、求められているモノとがずれてるのではなかろうか。あるいは値段のズレか。 最近、便利な本は増えたけど、いい本は減ってはいないだろうか。ユビキタスな環境がそれなりに整いつつある今、手に持って歩きたい「本」って何なのか、今日も電車で本を開きながら考える。 以上。/mitsui

     
  • コラム No. 54

    プレゼン プレゼンテーション。最初に、これから話すべきことを簡潔にリスト表示する。自己紹介と謝辞をいう。聞く人の目を見て、早口にならないようにゆっくりと話す。資料は、レイアウト的にも色彩的にも見やすくし、全ページ数も表示し、今が全体のどの辺りにいるのかを暗示させる。終了時には自分へのアクセス方法を示し、今後に繋げる。 最初の会社ではほぼこの様に教わった。外資系であり、外人講師がやるとカッコイイと思うものの自分がやっても、ちっともサマにならなかった記憶がある。当時プレゼンを行なう方々は皆雲の上の方々ばかりだった。 道を踏み外し始めたのは、幕張で行なわれるようなEXPO的な大きな展示会に行き始めた頃からか。いわゆる「ウケ」の部分への関心が高まっていった。自分の中で「プレゼン」の定義が、「適切な情報を適切に手渡しする場」から「情報以上のモノのやり取りの場」に徐々に変わっていった。 それまでは、「礼儀」という部分にかなりウエイトを置いていた気がする。しかもプレゼンされる内容は「上」から示されるような権威をもった情報だった。話す側にも聞く側にも漠然としたこの共通意識があった。プレゼンする側も緊張して、とにかく正しく情報を伝えることに終始していた。それが礼儀であり、正しいプレゼンだと信じていた。 それが徐々に変わっていく、違う世界が見えてきた。与えられた時間をどう「有意義に過ごしてもらえるか」、それがテーマに変わりつつある。楽しんでプレゼンしたいし、楽しんで「参加」して欲しい。一緒にいる時間が忘れられない瞬間になって欲しい。俗に言うと「ショー」化しているのかもしれない。 90年代後半の幕張はそんなプレゼンの発祥地かもしれない。今のように各社独自が行なうプライベートセミナーは余りない時代、殆ど全ての大きなベンダーは集結し、喉を腫らしてプレゼン合戦をした。数万人が往来する大通りで数分間立ち止まってもらう、そこに腕の見せ場があった。金持ち企業は女性を派手な衣装でズラーッと並べたが、そこにもプレゼンで勝てるかという挑戦。 お話だけでは客は飽きてしまう。発表する製品自体もビジュアル的な仕掛けが多かったので、視覚的効果は計算されて使われた。デモの手際も評価の対象だった。大会場で時間に追われながら行なうことは、正直言ってデモを行なう場としては不適切だ。実際の使われる現場ともかけ離れている。でもそこでも見せる、魅せることができるという点が、その商品の実力とも思われた。 文字入力をするときに、「あ」と打つだけで「赤坂何丁目」のような変換を仕込んでおくようなTipsから、料理番組のように「流れ」を説明して仕掛けるところまで見せて、予め用意しておいた完成品を見せるというのも流行った。あえて、その場でやってみせるツワモノもいた。冷静に見れば、その製品の新機能として、できて当たり前ことが目の前でできたことに対して、演じる側も見る側も拍手をした。 有名なプレゼンテータがいた。A氏。彼の話を聞きに行くのが目的だったこともある。技術的な新しい話を期待しないで出向いたときもある。彼の視点と話し口を体験したかった。正直に言えば、技術的にはアヤフヤな発言は多かった。しかし、それで問題はなかった。技術畑の人間で無いことは殆どの人が知っていたし、初心者レベルのことでも彼がやろうものなら、こちらがドキドキしたものだ。何故それで「問題がない」のか。彼は誤った情報を示したと分かったら、きっちりと謝ったからだと思う。礼儀も正確さも吹っ飛んで納得した。会場から出るときに私が持って帰ってきたものは、情報ではなく熱意に近いものだった。 Webの情報氾濫は当時よりも強まった。しかし、大抵の情報がネットに落ちているという常識も同時に形成した。その状況でわざわざ足を運んで情報に接する目的は何だろう。ショー化したプレゼンはそれを先取りしていた気がする。印象に残らないプレゼンを見に行くのは、時間の無駄だろう。但しその印象を生むメカニズムに個人差がある。Tipsで満足する人もいれば、情報源URLを取得できれば良しという人もいる。有名人の声を聞くことで満足する人もいて、千差万別。でも不思議と、「印象に残ったのは?」と聞くと、結構「本当に良い」モノが上位に来る気がする。 あとで、そのA氏の逸話を聞いた。担当するプレゼンの練習にどれほどの時間を割いたか。社長自らが前に座った会議室。何度も何度もリハーサルをしたそうだ。社長曰く「俺を納得させられないで、客を納得させられるか」。愛想笑いにも見えた笑顔の裏に努力が蓄積されていた。だからこそ、外人のやる「レディース、アンド…」の格好よいだけのプレゼンよりも遥かに記憶に残るプレゼンだったのだ。 最近、プレゼンの流れは変わってきている。誰もがPowerPointを使うようになってからプレゼンコンテンツの平均的「質」は明らかに下落した。どう考えても読めない量の情報を5秒しか見せない画面に押し込める。テンプレートの概念も無視され、ページごとに企業ロゴの場所が左右に揺れ、タイトルの位置も文字体も統一感が無い。 デモ機がフリーズする頻度は以前同様レベルだと思うが、プレゼンテータが固まってしまう頻度は異常に高くなった。「あれ、どうしたのかなぁ」のつぶやき連続攻撃や、沈黙しての復旧作業。そこが壇上である意識がまるでない。機械ではなく人間が行なっている理由に、アドリブができるという点も入っているだろうに。聞いている側の人間の醒める速度が読めていない。 自分のプレゼン能力も高くは無いので責める立場には無いが、(私的には)A氏を中心として築かれてきたプレゼンノウハウが断絶の憂き目に会っているように感じる。当時の観客への配慮やオモテナシや敬意が希薄になって来ているように思うのは私だけではないだろう。 更に、最近はプレゼンする場面も多様化してきている。機能を見せる場面だけでなく、プログラムコードを見せる場面も増えてきた。しかし、これは会場とかインフラも遅れている。縦長の会場では、数十行のコードを前列の人からから最後列の人までキチンと見せるには、常識的に言って無理がある。しかも、演じる側も何(コード紹介か機能紹介か…)をメインにするのかを告知しない場合もある。観客は好きな期待を抱いてプレゼンを見て、満足する人もいれば、裏切られたと思う人もいる。 会議のような場でも、文字情報ならファイル共有をしている限りあとでじっくり読める。それを作者に朗読させる意味は何だろう。棒読みならば多分無意味だ。読んでも分からない部分を補ったり、読むこと自体を省略できなくては、本末転倒だ。でも、それができるための条件もある。数十ページの計画書を5分で説明しろといっても、それは無理。それがしたいなら聞く側との相当の共通意識がないとできる訳が無い。でもそんな要求も稀ではない。じゃあ、伝えるべきモノは何だろう。 最近熱い方々のプレゼンに接する機会が増えていて、プレゼンそのものをもう一度考えさせられている。資料は何の変哲もない数ページなのに、感動してしまう、唸ってしまう時がある。別に顔を真っ赤にして熱弁奮っていないのに、何かジンジンと響いてくる。言葉にできないけれど、プレゼン資料には載せ切れない情報がある。それがプレゼンの根っ子なのか。 Webが情報配信/受信の仕組みである以上、その発展は従来のそれに影響を与える。人対人というプレゼンの領域にも影響を与えても不思議ではない。どんな情報がプレゼンする価値があるのかという根底から、熱意のような計測不可能なものまで含めて、地殻変動が起こっている。eラーニングが当たり前の世の中が来る前に、足元を見つめてみるのも面白い。 以上。/mitsui

     
  • コラム No. 53

    アクセシビリティ 2004年3月、そのセミナーは開催された。テーマは「アクセシビリティ」、主催はアンカーテクノロジー(株)。都合で最初の1.5時間しか聞けなかったが、背筋が凍る思いがした。いままで何をやってきたんだろうと自分自身を情けなく感じた。新技術にキャッチアップできるかという問題ではなく、面倒だから避けてきた自分を卑下する思い。久々に味わう劣等感。 私的には2004年のWeb界のメインテーマは、この「アクセシビリティ」に決まりだ。正直言って、いままで見ないフリをして逃げてきたテーマだ。しかし、もう逃げられない。逃げる言い訳がなくなってしまった上に、その理論と実装方法に惚れ込んでしまった。 セミナーの講師は、森川氏と神森氏。Web業界を見てきている人で、この二人に存在感を感じていない人はモグリだろう。特に森川氏は、今ではMacromedia社の主力製品であり、Web業界人の標準ツールであるDreamweaver/Fireworks(DW/FW)の伝道で、MM社員よりも貢献したといっても良い御仁だ。3時間程から始まった伝道セミナーは徐々に伸び、5時間耐久、8時間耐久までにも拡張していった。体力の続く限り、知っていることは全て伝いたい。そんな氏の姿勢に頭が下がる。それにお世話になった業界人は山のようにいるし、神森氏は、月刊誌WebCreatorsで「いますぐはじめるCSSデザイン」をロングラン連載中だ。森川氏の「動」に対して、神森氏の「静」という感じもする。異色といえば異色だが、Webの流れから見ると必然とも言えるコンビなのかもしれない。 ref) 森川氏サイト : http://www.siliconcafe.com/ 神森氏サイト : http://www.t-studio.jp/ アンカーテクノロジー(株) : http://www.digital-magic.co.jp/ そもそもtableタグを用いて、正確な(どのブラウザでも同じく見える)レイアウトの作成方法を広めたのは森川氏だった。横幅を正確に固定することのできないtable構造に、「spacer.gif」という固定幅実現のための「つっかえ棒」を配置することでカチッとしたレイアウトの実現が可能になった。その正確さを重視するために、tableは何重にも入子状に配置された。Webデザイナ必須のTipsと言っても良い。 そうした手法を提案してきた氏が、それを否定した。申し訳なさそうだった。しかし、良いモノを見つけてしまったからには伝えざるを得ない。DW/FWの時と根っ子も姿勢も同じだ。申し訳ないけれど、この方法を見てくれと力説する氏の姿に、言ってる事が違う等と怒りを持つ訳もなく、再度信頼してみようと思わされる。 アクセシビリティ。従来は身体障害者にも「優しい」Webサイトの指標として捉えられていた。今でもそういった響きが強いかもしれない。多くは音声ブラウザへの対応を指し、目が見えなくても情報入手が可能か、情報操作ができるのかという観点で捉えられてきた。 しかし、ここ数ヶ月の間に行われたアクセシビリティ系セミナーに参加して、実際の音声ブラウザの「声」を聞いていて、違う点に気付かされた。それだけではない。ページを読上げ聞きなおすと、そのページの「意味付け」が明確になる。自分が無意識に何を「装飾」として付け足しているのかがはっきりする。 例えば、左上端にメインロゴを置く。その下にサイトのメインページへのリンクを貼る。左側にメニューを置き、その横にメインコンテンツを置く。それを音声ブラウザで読んでみる。そこで気付かされるのは、メインコンテンツに辿りつくまでに読みあげられる、二次的な情報の多さだ。音声ブラウザでこのページを「見ている」ユーザは、このページの中心点に到着するまでに山ほどのリンク情報を我慢して聞かなくてはならない。このページは一体何なのだ、そうした一番肝心な情報が最初に語られていない訳だ。 別に目の見えるユーザの方が多いのだからそれでも良いじゃないかと考える気持ちが一般的だろう。しかし、昨今のセミナーの主眼は、そんなところに無い。情報の「整理」という部分を今一度見直してはどうかと問いかけている。 Web情報が様々なデバイスで見られるようになるずっと以前から、何度も「ワンソース・マルチユース」という夢物語は語られてきた。しかし、現場に居るものとして、情報(コンテンツ)とレイアウトを切り離さずに書いている限り、薄々とではあるが、それが単なる夢であることは皆が感付いている。でも今回は少し違う。単なる夢ではないかもしれないという希望が見える。 今のアクセシビリティの流れは、こうした問題を解決するものとして、CSS(Cascading Style Sheets)を中心技術に据えている。CSSは、デザインの幅を広げるモノとして、今までもスポットライトは当たってきている。しかし今回の文脈は少し違う。 ref) CSS : http://www.w3c.org/Style/CSS/ 方法論的には、情報の優先順位をキチンと考え、そのタイトルを、今まで使ったことも無い、H1~H6タグでランク付けをする。ランク付けされた情報部品の中身の体裁を分類(ID付けや、クラス分け)し、情報整理する。情報整理された情報をHTML化し、分類された体裁をCSS化する。出来上がったHTMLは、H1-6,div,span,p,…等の非常にシンプルなタグで構成される。情報は全て左側に張り付いている。そっけなくも感じるが、上から読み上げると論旨は明確。装飾が殆ど無い。装飾に関する情報は全てCSSの中に書かれている。 これを読んだだけでは、こうした構成方法の苦労の本当のところは分からないだろう。森川氏はセミナーの中で、「この方法はウワベを変えるような作業ではない、まるでビルを土台まで壊して更地にしそこから再度作り上げるような作業です」と言った。聞いたとき、私もその意味するところは分かっていなかった。 しかし、Ridualサイトで試してみることにして、泣かされた。正直言って今までの考え方が全然通用しない。情報を見るたびに、trやtdタグが頭をよぎる。いやいやそうではない、レイアウトをしたい訳ではない。情報を整理して表示したいのだと言い聞かせる。装飾を削ぎ落とす、それがこんなに難しいとは思っても見なかった。味も素っ気も無いHTMLを見ると、そこがコンテンツ自体の勝負であることが明確になる。ただでさえ、Ridualサイトは説明不足の部分があるのだが、それが浮き彫りになる。それは如何に見た目で「上げ底」をしていた自分と対峙することにもなる。 CSSで何ができるのかが分かっていないと、効率的な情報分類は不可能だ。情報分類ができていないと、CSSレイアウトは進まない。鶏が先か卵が先か。そんなジレンマの中で試行錯誤を重ねる。おまけに、ブラウザ依存の問題が頭を持ち上げる。何となくどのブラウザがどのタグをどのように表示するのかが、常識的に感知できるようになっているのに、それも白紙になる。そもそも対応していないブラウザもまだ存在する。まるっきり一年生状態だ。 でも苦労して作ったサイトは気持ちが良い。まだまだコンテンツが足りないことは自覚しているが、今までと違った満足感がある。CSSをONにした状態と、OFFにした状態とで見比べる(NetScape7.*は標準出可能、IEはPlugIn「ス切りボ」が必要)。故意に非対応にしたブラウザではOFF状態で見える。イメージもCSS中で規定しているので、非対応版では絵は表示されない。iModeで見ても文字だけでそのページで何を伝えたいのか簡潔に表示される。二重に配置したCSSはiModeでは感知されないので、余計な装飾グラフィックはダウンロードされない。パケット代もかからない。 ref) ス切りボ: […]