コラム No. 55

本は解答自動販売機か?

情報がWebで簡単に引き出せるようになった今、「本」の意味とか価値って一体何なのだろう。実のところ、私自身は本に囲まれている状況が大好きだ。太いネットにつながっている状況と比べても、好みとしては本の方だと言える。情報検索も、ほぼ習慣的に本を探してしまって、横で若手がグーグッ(Google)ているのを見て苦笑することはよくある。

母が司書だった関係もあり、書籍の山の中に入る経験は小さいときから多々あった。しかし、文字を読む経験は人より多くは積んでいない。手塚治虫に出会ってから、「絵本」にしか興味がなかった。文字を通して読み解いていくプロセスよりも、視覚的に直接訴えられる方が心地よいと感じた(この辺りが稚拙な文書しか書けない理由かもしれない)。

少し古くなった本特有の「匂い」も、好きではあるけれど、ハウスダストのアレルギーに微妙に触れるようで、満喫することもできない。大きな本は、持ち歩くのに苦労するあの重さが嫌いだし、読み続けた本の手の触れる部分が色濃くなっていくのも、カバーの縁がささくれ立っていくのも気になる。

なのに、本に囲まれている状況は好きだし、なんだか安心できる。何故なのだろう。そこに書かれている情報以上のものを身近に置いているという気持ちのような気がしている。

本に求めるものを、現在のWebデザイン系定期雑誌が端的に現している。淘汰の結果、今や二誌(或いは二社)に絞られた状況で、この二つが中々好対照で面白い。一つはとにかくTipsに肩入れしている。読んで直ぐに使える情報。他方は、理論的な話や哲学的な色彩も含む。誰もが直ぐには使える訳ではないけれど、記憶に残っていればいつか花を咲かせる種のような話も多い。

本を求めるとき、この二つの方向性で探す。JavaScriptやActionScriptの記述で困ったとき、そのまま使えるコードが欲しい。何冊もめくり、Webを歩き回って拾い集める。火が付き始めたプロジェクトで、こんな方法で難を逃れたこともある。けれど、少し余裕があるときには、「考え方」そのものに触れようとしている自分に気がつく。決して即効性の解答を求めていない。そして、どちらが記憶に残っているかというと、圧倒的に後者であることが多い。

更に考えると、得られたものの再利用の局面でも面白い傾向がある。Tips集は、その技術が欲しいのだけれど、本当に欲しいのはコードであって解説文じゃない。しかも本の印刷されたものではない。CD-ROMに収録されている、そのままコピーペースト可能なモノが欲しい。そして、それは大抵の場合、Webの何処かにも埋もれていたりする。「本」という形が必須だとは言い難い。収録してくれている本にも愛着は薄い。

では、理論や哲学論的なものはどうだろう。アイデアという面で見れば、こちらも本の形をしている必要はない。引用などを考えると、シンプルなテキスト状態でネットに置いてある状態が一番嬉しい。

でも、本の形にして手元に置いておきたくなる情報がある。そのアイデアや熱い言葉をもう一度思い出すときに、その本という形のお世話になったりする。ページ数は覚えていなくても、「あの写真とこの表がこんな風に配置されたページの上から1/3あたり」という憶え方をしている情報も幾つかある。その写真を思い出そうと頑張っていると、その文書そのものが頭の中にパッと浮かぶときもある。これは「固定」されているとか「制約」されていることが、何か記憶の引き金になっているのかもしれないし、Webの日々更新されるバナー広告に代用させることはできそうにない。上手く書けないけれど「ページ」という単位が記憶しやすく刷り込まれているのかもしれない。本の形をしている必要はないかもしれないが、本の形をしていることで助けられる部分も多い。

一度触れた考え方などを何度も思い返すようなことを考えると、「本たるべき『本』」とは、実用書的な部分だけではなく、理論や考え方や熱意等がある程度含まれているものであるように感じる(Tipsのありがたさも必要性も否定はしない)。なのに、最近目に付くのは、やはりTipsの比重が高い。編集者とも話す機会があるのだけれど、読んで直ぐ使えるものでないと商品価値がないと言い切る方も多い。

Webの開発手法論にしても、客観的情報だけとか答えが欲しいと言われる時もある。読者に考えさせるな、読者が読んで直ぐに真似できるものが一番、という文脈だ。けれど、私は著名人の話を読んだり聞いたりしても、その通りにしたいと思ったことは余りないし、答えが欲しい訳じゃない。サイトマップを模造紙四枚張り合わした大設計図にびっしり書いたり、プロジェクト部屋を作って常に情報を張り出したり。様々な実話に接したけれど、関心も感動もするけれど、興味を持つのは、どうしてそうしなければならないのか、何がしたくてそんなやり方を採用するのかという原点部分だけだし、自分とその著名人との差異を考えるのが楽しい。そんな見方が可能なのだという驚きを期待している。

でも、そんな感覚の方が稀なのかもしれない。本に対してだけでなく、相談でも先ず解答を求める人が増えている。自分の状況を充分に説明することもなく、「どうすれば良いと思いますか」とか「何か良いアイデアもらえませんか」と言い寄られる。「考えるって、実は楽しいことですよ」と悩むことを薦めてみたりする(そんなに冷静には言わないけれど)。

悩んでいるときは本人にとって辛い時間かもしれないけれど、あとで考えると成長みたいなものが見える時でもある。そう考えると、深く悩むネタをもらえることも一種の恵みだ。だとしたら、答えばかりが並んでいる本ではなく、自分が考えもしなかったことに眼を留めるようにしてくれる本はかなり貴重なのではないだろうか。

そもそもWebサイト開発には「解」なんてなくて、悩む入口だけが一杯あるのかもしれない。ユーザビリティとかアクセシビリティなんて、根本的には、そういった話だ。どこにでも適応可能な技術Tipsは少なく、考え方の基準や原点こそが使いまわせる。

Webという圧倒的な情報蓄積システムがここまで育っている現状で、本が挑むターゲットって「便利さ」なのだろうか。即席インスタントラーメンよりも、料理を作るプロセスを味わい楽しむ人もいるし、その数は実は多いように思える。実際、Webにない本の武器は、幾重にも重ねられたであろう編集プロセスとか出版(情報発信)に伴う覚悟のようなものではないだろうか。それが活かせるのは、枝葉のTipsの方向ではなく、根底の思考的基盤の方向のような気がしてならない。

出版不況の数字は何度も見るけれど、実体験としては薄い。立ち寄る本屋は常に客がそれなりにいるし、電車の中の読書家も昔より多い気がする。結構な分厚い本を熱心に読む姿に、老若男女の隔てはない。「情報」に皆が飢えているというお国柄は昔とあまり変わっていないのだろう。なのに、本が売れないとしたら、売られているモノと、求められているモノとがずれてるのではなかろうか。あるいは値段のズレか。

最近、便利な本は増えたけど、いい本は減ってはいないだろうか。ユビキタスな環境がそれなりに整いつつある今、手に持って歩きたい「本」って何なのか、今日も電車で本を開きながら考える。

以上。/mitsui

コラム No. 54

プレゼン

プレゼンテーション。最初に、これから話すべきことを簡潔にリスト表示する。自己紹介と謝辞をいう。聞く人の目を見て、早口にならないようにゆっくりと話す。資料は、レイアウト的にも色彩的にも見やすくし、全ページ数も表示し、今が全体のどの辺りにいるのかを暗示させる。終了時には自分へのアクセス方法を示し、今後に繋げる。

最初の会社ではほぼこの様に教わった。外資系であり、外人講師がやるとカッコイイと思うものの自分がやっても、ちっともサマにならなかった記憶がある。当時プレゼンを行なう方々は皆雲の上の方々ばかりだった。

道を踏み外し始めたのは、幕張で行なわれるようなEXPO的な大きな展示会に行き始めた頃からか。いわゆる「ウケ」の部分への関心が高まっていった。自分の中で「プレゼン」の定義が、「適切な情報を適切に手渡しする場」から「情報以上のモノのやり取りの場」に徐々に変わっていった。

それまでは、「礼儀」という部分にかなりウエイトを置いていた気がする。しかもプレゼンされる内容は「上」から示されるような権威をもった情報だった。話す側にも聞く側にも漠然としたこの共通意識があった。プレゼンする側も緊張して、とにかく正しく情報を伝えることに終始していた。それが礼儀であり、正しいプレゼンだと信じていた。

それが徐々に変わっていく、違う世界が見えてきた。与えられた時間をどう「有意義に過ごしてもらえるか」、それがテーマに変わりつつある。楽しんでプレゼンしたいし、楽しんで「参加」して欲しい。一緒にいる時間が忘れられない瞬間になって欲しい。俗に言うと「ショー」化しているのかもしれない。

90年代後半の幕張はそんなプレゼンの発祥地かもしれない。今のように各社独自が行なうプライベートセミナーは余りない時代、殆ど全ての大きなベンダーは集結し、喉を腫らしてプレゼン合戦をした。数万人が往来する大通りで数分間立ち止まってもらう、そこに腕の見せ場があった。金持ち企業は女性を派手な衣装でズラーッと並べたが、そこにもプレゼンで勝てるかという挑戦。

お話だけでは客は飽きてしまう。発表する製品自体もビジュアル的な仕掛けが多かったので、視覚的効果は計算されて使われた。デモの手際も評価の対象だった。大会場で時間に追われながら行なうことは、正直言ってデモを行なう場としては不適切だ。実際の使われる現場ともかけ離れている。でもそこでも見せる、魅せることができるという点が、その商品の実力とも思われた。

文字入力をするときに、「あ」と打つだけで「赤坂何丁目」のような変換を仕込んでおくようなTipsから、料理番組のように「流れ」を説明して仕掛けるところまで見せて、予め用意しておいた完成品を見せるというのも流行った。あえて、その場でやってみせるツワモノもいた。冷静に見れば、その製品の新機能として、できて当たり前ことが目の前でできたことに対して、演じる側も見る側も拍手をした。

有名なプレゼンテータがいた。A氏。彼の話を聞きに行くのが目的だったこともある。技術的な新しい話を期待しないで出向いたときもある。彼の視点と話し口を体験したかった。正直に言えば、技術的にはアヤフヤな発言は多かった。しかし、それで問題はなかった。技術畑の人間で無いことは殆どの人が知っていたし、初心者レベルのことでも彼がやろうものなら、こちらがドキドキしたものだ。何故それで「問題がない」のか。彼は誤った情報を示したと分かったら、きっちりと謝ったからだと思う。礼儀も正確さも吹っ飛んで納得した。会場から出るときに私が持って帰ってきたものは、情報ではなく熱意に近いものだった。

Webの情報氾濫は当時よりも強まった。しかし、大抵の情報がネットに落ちているという常識も同時に形成した。その状況でわざわざ足を運んで情報に接する目的は何だろう。ショー化したプレゼンはそれを先取りしていた気がする。印象に残らないプレゼンを見に行くのは、時間の無駄だろう。但しその印象を生むメカニズムに個人差がある。Tipsで満足する人もいれば、情報源URLを取得できれば良しという人もいる。有名人の声を聞くことで満足する人もいて、千差万別。でも不思議と、「印象に残ったのは?」と聞くと、結構「本当に良い」モノが上位に来る気がする。

あとで、そのA氏の逸話を聞いた。担当するプレゼンの練習にどれほどの時間を割いたか。社長自らが前に座った会議室。何度も何度もリハーサルをしたそうだ。社長曰く「俺を納得させられないで、客を納得させられるか」。愛想笑いにも見えた笑顔の裏に努力が蓄積されていた。だからこそ、外人のやる「レディース、アンド…」の格好よいだけのプレゼンよりも遥かに記憶に残るプレゼンだったのだ。

最近、プレゼンの流れは変わってきている。誰もがPowerPointを使うようになってからプレゼンコンテンツの平均的「質」は明らかに下落した。どう考えても読めない量の情報を5秒しか見せない画面に押し込める。テンプレートの概念も無視され、ページごとに企業ロゴの場所が左右に揺れ、タイトルの位置も文字体も統一感が無い。

デモ機がフリーズする頻度は以前同様レベルだと思うが、プレゼンテータが固まってしまう頻度は異常に高くなった。「あれ、どうしたのかなぁ」のつぶやき連続攻撃や、沈黙しての復旧作業。そこが壇上である意識がまるでない。機械ではなく人間が行なっている理由に、アドリブができるという点も入っているだろうに。聞いている側の人間の醒める速度が読めていない。

自分のプレゼン能力も高くは無いので責める立場には無いが、(私的には)A氏を中心として築かれてきたプレゼンノウハウが断絶の憂き目に会っているように感じる。当時の観客への配慮やオモテナシや敬意が希薄になって来ているように思うのは私だけではないだろう。

更に、最近はプレゼンする場面も多様化してきている。機能を見せる場面だけでなく、プログラムコードを見せる場面も増えてきた。しかし、これは会場とかインフラも遅れている。縦長の会場では、数十行のコードを前列の人からから最後列の人までキチンと見せるには、常識的に言って無理がある。しかも、演じる側も何(コード紹介か機能紹介か…)をメインにするのかを告知しない場合もある。観客は好きな期待を抱いてプレゼンを見て、満足する人もいれば、裏切られたと思う人もいる。

会議のような場でも、文字情報ならファイル共有をしている限りあとでじっくり読める。それを作者に朗読させる意味は何だろう。棒読みならば多分無意味だ。読んでも分からない部分を補ったり、読むこと自体を省略できなくては、本末転倒だ。でも、それができるための条件もある。数十ページの計画書を5分で説明しろといっても、それは無理。それがしたいなら聞く側との相当の共通意識がないとできる訳が無い。でもそんな要求も稀ではない。じゃあ、伝えるべきモノは何だろう。

最近熱い方々のプレゼンに接する機会が増えていて、プレゼンそのものをもう一度考えさせられている。資料は何の変哲もない数ページなのに、感動してしまう、唸ってしまう時がある。別に顔を真っ赤にして熱弁奮っていないのに、何かジンジンと響いてくる。言葉にできないけれど、プレゼン資料には載せ切れない情報がある。それがプレゼンの根っ子なのか。

Webが情報配信/受信の仕組みである以上、その発展は従来のそれに影響を与える。人対人というプレゼンの領域にも影響を与えても不思議ではない。どんな情報がプレゼンする価値があるのかという根底から、熱意のような計測不可能なものまで含めて、地殻変動が起こっている。eラーニングが当たり前の世の中が来る前に、足元を見つめてみるのも面白い。

以上。/mitsui

コラム No. 53

アクセシビリティ

2004年3月、そのセミナーは開催された。テーマは「アクセシビリティ」、主催はアンカーテクノロジー(株)。都合で最初の1.5時間しか聞けなかったが、背筋が凍る思いがした。いままで何をやってきたんだろうと自分自身を情けなく感じた。新技術にキャッチアップできるかという問題ではなく、面倒だから避けてきた自分を卑下する思い。久々に味わう劣等感。

私的には2004年のWeb界のメインテーマは、この「アクセシビリティ」に決まりだ。正直言って、いままで見ないフリをして逃げてきたテーマだ。しかし、もう逃げられない。逃げる言い訳がなくなってしまった上に、その理論と実装方法に惚れ込んでしまった。

セミナーの講師は、森川氏と神森氏。Web業界を見てきている人で、この二人に存在感を感じていない人はモグリだろう。特に森川氏は、今ではMacromedia社の主力製品であり、Web業界人の標準ツールであるDreamweaver/Fireworks(DW/FW)の伝道で、MM社員よりも貢献したといっても良い御仁だ。3時間程から始まった伝道セミナーは徐々に伸び、5時間耐久、8時間耐久までにも拡張していった。体力の続く限り、知っていることは全て伝いたい。そんな氏の姿勢に頭が下がる。それにお世話になった業界人は山のようにいるし、神森氏は、月刊誌WebCreatorsで「いますぐはじめるCSSデザイン」をロングラン連載中だ。森川氏の「動」に対して、神森氏の「静」という感じもする。異色といえば異色だが、Webの流れから見ると必然とも言えるコンビなのかもしれない。

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そもそもtableタグを用いて、正確な(どのブラウザでも同じく見える)レイアウトの作成方法を広めたのは森川氏だった。横幅を正確に固定することのできないtable構造に、「spacer.gif」という固定幅実現のための「つっかえ棒」を配置することでカチッとしたレイアウトの実現が可能になった。その正確さを重視するために、tableは何重にも入子状に配置された。Webデザイナ必須のTipsと言っても良い。

そうした手法を提案してきた氏が、それを否定した。申し訳なさそうだった。しかし、良いモノを見つけてしまったからには伝えざるを得ない。DW/FWの時と根っ子も姿勢も同じだ。申し訳ないけれど、この方法を見てくれと力説する氏の姿に、言ってる事が違う等と怒りを持つ訳もなく、再度信頼してみようと思わされる。

アクセシビリティ。従来は身体障害者にも「優しい」Webサイトの指標として捉えられていた。今でもそういった響きが強いかもしれない。多くは音声ブラウザへの対応を指し、目が見えなくても情報入手が可能か、情報操作ができるのかという観点で捉えられてきた。

しかし、ここ数ヶ月の間に行われたアクセシビリティ系セミナーに参加して、実際の音声ブラウザの「声」を聞いていて、違う点に気付かされた。それだけではない。ページを読上げ聞きなおすと、そのページの「意味付け」が明確になる。自分が無意識に何を「装飾」として付け足しているのかがはっきりする。

例えば、左上端にメインロゴを置く。その下にサイトのメインページへのリンクを貼る。左側にメニューを置き、その横にメインコンテンツを置く。それを音声ブラウザで読んでみる。そこで気付かされるのは、メインコンテンツに辿りつくまでに読みあげられる、二次的な情報の多さだ。音声ブラウザでこのページを「見ている」ユーザは、このページの中心点に到着するまでに山ほどのリンク情報を我慢して聞かなくてはならない。このページは一体何なのだ、そうした一番肝心な情報が最初に語られていない訳だ。

別に目の見えるユーザの方が多いのだからそれでも良いじゃないかと考える気持ちが一般的だろう。しかし、昨今のセミナーの主眼は、そんなところに無い。情報の「整理」という部分を今一度見直してはどうかと問いかけている。

Web情報が様々なデバイスで見られるようになるずっと以前から、何度も「ワンソース・マルチユース」という夢物語は語られてきた。しかし、現場に居るものとして、情報(コンテンツ)とレイアウトを切り離さずに書いている限り、薄々とではあるが、それが単なる夢であることは皆が感付いている。でも今回は少し違う。単なる夢ではないかもしれないという希望が見える。

今のアクセシビリティの流れは、こうした問題を解決するものとして、CSS(Cascading Style Sheets)を中心技術に据えている。CSSは、デザインの幅を広げるモノとして、今までもスポットライトは当たってきている。しかし今回の文脈は少し違う。

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方法論的には、情報の優先順位をキチンと考え、そのタイトルを、今まで使ったことも無い、H1~H6タグでランク付けをする。ランク付けされた情報部品の中身の体裁を分類(ID付けや、クラス分け)し、情報整理する。情報整理された情報をHTML化し、分類された体裁をCSS化する。出来上がったHTMLは、H1-6,div,span,p,…等の非常にシンプルなタグで構成される。情報は全て左側に張り付いている。そっけなくも感じるが、上から読み上げると論旨は明確。装飾が殆ど無い。装飾に関する情報は全てCSSの中に書かれている。

これを読んだだけでは、こうした構成方法の苦労の本当のところは分からないだろう。森川氏はセミナーの中で、「この方法はウワベを変えるような作業ではない、まるでビルを土台まで壊して更地にしそこから再度作り上げるような作業です」と言った。聞いたとき、私もその意味するところは分かっていなかった。

しかし、Ridualサイトで試してみることにして、泣かされた。正直言って今までの考え方が全然通用しない。情報を見るたびに、trやtdタグが頭をよぎる。いやいやそうではない、レイアウトをしたい訳ではない。情報を整理して表示したいのだと言い聞かせる。装飾を削ぎ落とす、それがこんなに難しいとは思っても見なかった。味も素っ気も無いHTMLを見ると、そこがコンテンツ自体の勝負であることが明確になる。ただでさえ、Ridualサイトは説明不足の部分があるのだが、それが浮き彫りになる。それは如何に見た目で「上げ底」をしていた自分と対峙することにもなる。

CSSで何ができるのかが分かっていないと、効率的な情報分類は不可能だ。情報分類ができていないと、CSSレイアウトは進まない。鶏が先か卵が先か。そんなジレンマの中で試行錯誤を重ねる。おまけに、ブラウザ依存の問題が頭を持ち上げる。何となくどのブラウザがどのタグをどのように表示するのかが、常識的に感知できるようになっているのに、それも白紙になる。そもそも対応していないブラウザもまだ存在する。まるっきり一年生状態だ。

でも苦労して作ったサイトは気持ちが良い。まだまだコンテンツが足りないことは自覚しているが、今までと違った満足感がある。CSSをONにした状態と、OFFにした状態とで見比べる(NetScape7.*は標準出可能、IEはPlugIn「ス切りボ」が必要)。故意に非対応にしたブラウザではOFF状態で見える。イメージもCSS中で規定しているので、非対応版では絵は表示されない。iModeで見ても文字だけでそのページで何を伝えたいのか簡潔に表示される。二重に配置したCSSはiModeでは感知されないので、余計な装飾グラフィックはダウンロードされない。パケット代もかからない。

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メインメニューも表示上は上のほうに来るが、HTML上は下の方にある。先ほどの読まれる順番を意識した。そのページのアイデンティティのようなものにできるだけ早くアクセスできるようにしたつもりだ。その分、今までに無いことも起こっている。下に記述されているが故に、最後の方で読み込まれレンダリング(表示)される。じっくり見るとメインメニューの出方が遅い。キャッシングも少し今までと違う体感がある。

実は公開後もCSS部分は、上記対応も含めて毎日のようにいじっている。HTMLはそのままで。レイアウトだけ別に修正可能だという実証実験。まだズレがあったりするので、改修工事は暫く続く。ブラウザ依存テストも並行して続けているが、それすら後ろ向きではない。毎日が発見の連続。久々にページ記述が楽しい。ウチのチームは少人数ながら結構湧いている。なんだか最先端を行っている気がするのも、こそばゆく嬉しい。

これからのWebサイト開発では何が主流になってくるのか。間違いなくCSSレイアウトだと思う。私自身はデザインに敬意を払わないエンジニアは二流だと信じて疑わないが、開発プロセスを考えればデザイナ作業とエンジニア作業の接点は少ない方が良いに決まっている。衝突も間違いも少なくなる。CSSレイアウトではそれが可能だ。

つまりそれは、JSPやASP等動的ページの開発にも適応できるということだ。サーバで生成されるHTML部分には装飾要素は無い。装飾はCSS任せ。JSP内のHTML部分で、デザイナが苦心した部分をエンジニアが踏みにじって、レイアウトだけではなく、チームの仲さえ滅茶苦茶にする事例は多々ある。面倒な衝突をただ避けるために、デザイナを入れないプロジェクトも少なくない。しかし、今度は情報整理がなされて、class/idが付加されていたら、デザイナが独立に見た目を、情報伝達の滑らかさを演出できることになる。

セミナー中にも紹介されたが、端的な例が”CSS Zen Garden”。共通のHTMLを使い、CSSのみを替えることで何が起こるかの実証実験サイト。ページ内の英語はまだ読んでいないが(読まなくても大丈夫)、同じ内容のページの見た目がこんなに変わるという事実。CSSのデザイン能力の幅が実体験できる。行間調整とか微妙なスタイル調整にCSSを使っていた方にとっては、目から鱗の話かもしれない。既にガイドブックが出ている。既に書籍になっているということ自体に、自分のふがいなさも感じる。また、最近流行のBLogを通じてもCSSの表現力は実感可能だ。

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今アクセシビリティへの対応を考えていない企業サイトは少しヤバイかもしれない。この6月にはJIS化もされる。「tableレイアウトは望ましくない」というレベルの表現がなされると予想されている。JIS側には、強制的にtableレイアウトを排除したいとう意思はどうやらなさそうだが、それでもインパクトは絶大だろう。公的サイト構築の指針に組み込まれるのは時間の問題だし、「右にナラえ」大好きなお国柄だ、大きなところが動き出せば一気に普及が進むだろう。しかも、実は多くのメジャーな企業は既に、ポスト・プライベートポリシーとして独自の規定を設けてきている。アクセシビリティポリシーが無いサイトは、情報を読んでもらうという意識に欠けていると言われる可能性もある。情報を出したいだけの自己満足サイトという印象すら持つ。情報は、読ませる方向から読んでもらう方向に向いているのかもしれない。読んで頂く「おもてなし」ができないサイトは無粋といった感じか。

しかし、「我々」には大きな問題が出てしまった。情けないが、、RidualでRidualサイトが解析できない。Ridualは、まだCSS対応できていない。まだJavaScript解析で苦戦中。今まではこれでも、Ridualのダウンロード機能で試されても良いように考えてきた。でも、今回は付け焼刃では対応できない。グラフィック部品を殆どCSS内に記述してしまっているので、リソースの感知さえできない。でも、方向性を見つけた。次のターゲットは、CSSだ。

情報構造をレポートする機能、定義されているスタイル情報、どれがどう使われているのかのトレーシング機能。今後、コンテンツとレイアウトの分離が進めば、こうした情報が必須になってくる。今までデザインガイドラインという分厚い「遵守されるべき」ドキュメントが、「実際にどう適応されている指針か」という実装レベルの情報として必要になってくる。

これらを自分で書くのは、私は勘弁して欲しいと思った。ましてや、他人の書いたサイトのCSS仕様チェックは、かなり辛そうだ。こうした作業こそ自動でやるべきだ。勿論設計時は自分で書く。しかし、納品時にそれが「現状」を表すものと言い切れるほど、私は自分を信じていないし、大きなサイトになるほどブレは大きくなると思わざるを得ない。納品前のサイト構築デバッガ。更に、自分が納品してもらう側になったときの確認ツール。これが無いとこれからの道のりはかなり厳しい。

サイト解析は、「リンク情報」と「リソース情報」と「情報構造」の三方向から行われると予想してる。現状は前二者だけ見ていれば、ほぼ事足りる。が、次世代はそれだけでは足りないのだろう。当然、CMS(コンテンツ・マネージメント・システム)との絡みも出てくる。大量のコンテンツを扱うように慣れば、効率的に管理したくなるのが常だ。この時にも、どういった情報はどういったレイアウトで表示すべきだという「設計」が必要になる。

羅列された情報を整理して、サイトが出来上がってきたように、まさに一度更地に戻すようなフェーズを経て、構造化された情報の密集地としてのサイトが徐々に現れてくるのだろう。

今は、そんな七面倒な作り方ができるかと思う方が多い気がする。でも、trやtdで組まれた情報から、本質的な情報を抜き出して別デバイス用に加工するような作業をしてみると、このCSSレイアウトが本流のように感じることだろう。

もうひとつ。今まで現場を無視した、学者肌HTMLチェッカーと思っていたlintで高得点が取れるようになる快感。普通にtableレイアウトをしていると、マイナスの評価しか得られない。-20点とかで、-40点のサイト管理者を笑うという、「目くそ鼻くそを笑う」状態だったはず、普通は。。それが情けなくて寄り付かなくなってしまったツールだが。CSSデザインにすると高得点が取れる。高得点を取れて悪い気がするはずが無い。最近行きつけのサイトになっている。立ち返れば、HTML記述の根本精神をツール化したものだ。今になってそこで高得点を得られること自体が不思議な感覚だ。

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特定の技術だけを見ていると、その浮き沈みに一喜一憂してしまう。ブラウザ戦争のような欲望の渦に巻き込まれることで、苦しむこともある。Web制作の現場には、この先余り良い話はなく、面白そうな技術の登場が香辛料程度に広がっていくのだろうかと思った時期もあった。しかし、地道な人たちが実は地道に頑張っていたんだ、と気付かされる。CSSの意味に漸く気がつく私は大馬鹿だ。壮大な構想と、シンプルな実装。このWebの中心二軸は光を失わずに生き続けていた。愚痴言っている場合じゃない、勉強不足を言い訳にしている場合じゃない。改めて、大きな流れと、Web業界に居させてもらえて良かったと実感する。

以上。/mitsui

コラム No. 52

MAX JAPAN 2004、Flex

このドッグイヤーの時代に3ヶ月も前のカンファレンスの報告をするのも気が引けるが、触れずにWebを語るのにも抵抗があるので。2004年2月、Macromedia主催のプライベートカンファレンスが渋谷で開かれた。2日間、約40セッション、約3000名の集客。1企業で行う有料カンファレンスでは最大規模の一つだろう。「Web」というキーワードに関係するデザイナやエンジニア、それぞれのマネージャ達。ピアスからネクタイまで、これだけの客層を集めることのできる「場」は類を見ない。

個人的なベスト3について(この中での順位は無し):

A) 中村勇吾氏セッション
既にGoogleで探せば様々なコメントが見つかるが、インターフェースの考え方について、氏のコンセプト的な話。「こちら側」と「あちら側」を結ぶために、どのような思索が経られていくのか。機能提供だけで良いのかという問いかけと共に、鳥居が延々と続く写真やシナゴーグ(初代教会)の写真を大画面に映しながら、淡々と語る氏の姿は、もはや別世界の人のよう。Flashの可能性を誰よりも早く完成された姿で見せてきた氏ならではの世界と言える。パイオニアだからこそ見ることの出来る世界が実際にあるのだという実例だ。話を聞きながら、後付で理解することはできるが、あのように発想し、あのように実装し、あのようにクライアントと並走できるのは氏しかあり得ないのかも知れない、と感じてしまう。技術が成熟してから追いつけばよいという投資問題にすり替えて考えがちな頭をガツンとやられた感じさえした。先頭を走る者には、それに追いつこうとする者の視界にないモノが映っているに違いない。
B) 田中章雄氏の部屋
本当は2日目のキーノートに続くジェネラルセッションではあったけれど、田中CTO主催の「徹子の部屋」的な展開だったのでこう呼ぶ。4部構成で、最初の3部までが先端的な開発/適応事例先駆者を呼んでのトーク。最後は田中氏プロデュースの近未来の技術と心情との接点を描く短編映画(本当は3部構成で、最後の3部目に自分自身をゲストとしてトークしているという設定なのだろうけれど、別扱いした方が良いように思われたので4部とする)。
最初の3部の先駆者トークは、良くこれだけ事例を一同に集められたなぁと感じ入ってしまうもの。MM製品のβ版のお披露目から、ちょっと普通は思いつかないような活用方法まで。Flashを中心とした技術適応の幅広さを見せ付けられた。Flashの懐が深いのか、人間の感性にFlashがマッチしているのか、どちらか分からないが、色々な適応事例を見ているうちに、考え方に制限をつけているのは、人間の方かもしれないとも思わされた。
最後の短編映画。後で聞くと賛否両論ではあったようだが、私は涙腺緩みました。小学生の男の子が夏休みに田舎の祖父のところに泊まっている。虫眼鏡のようなモノで何かを覗くと、その構成要素情報を知ることができる。そうした情報を得るということと、その男の子の心情とが触れ合う。Webを通して私たちは多くの情報に接し、その洪水状態も当たり前になってきている。でも本来、情報ってもっと人間の「幸福」みたいなところと密接に繋がっていくべきモノなんじゃないだろうか。そんな問いかけともメッセージとも受け取れる映像が大画面で流された。
技術カンファレンスにおいて、このような映像を流すことの意味は何だろう。賛否両論の分かれ目はこの辺りに起因する。技術先行型の行き着く先に、人間を幸せにするゴールが間違いなく待っているのであれば誰も不安を感じない。でも、最近のWebでも家電でも議論されている「ユーザビリティ」とかの概念は、「現状はちっとも人間に優しくないよね」というのが出発点だろう。ならば、思いっきり人間の心情側に振れた時間や空間が技術カンファレンスにあっても良いのではないだろうか。少なくとも私は自分が何のために情報集積空間であるWebサイトを作るのを仕事にしているのか、足元を見直した。

C) Flex
事実上 MAX JAPAN 2004 最大の問題作といえるもの。Flex自体は少し前から技術情報は公開されているMacromedia社のSIer向けの戦略製品(技術)。MXMLというXML形式で記述したファイルをサーバに置き、そこにFlexが入っていればそれを swf(Flash) に変換してくれるというもの。今までとの最大の違いは、そのMXMLを記述する方法は通常のテキストエディタでもOKだという点。勿論専用のツール(コードネーム:BradyというDreamweaverライクな製品)は登場するが、Flashの開発現場にFlashというパーッケージソフトが不要になる。

MXMLというテキストファイルだけで管理できることのメリットは、SIerには絶大だ。まず、タイムラインという未知の概念を習得する必要がない、Flashというオーサリング環境の操作法を学ぶ必要もない。HTMLのformタグのように記述すれば、Flashの情報入力欄が出来上がるのである。そしてソースコード管理が、従来の手法をそのまま適応可能だ。Flashを特別視することなく、通常のプログラミング言語の一つとして管理可能だ。
最大の問題作と称する理由は、そのデモ内容。MAXの会場の中央部分で丸々2日間披露されていたのは、Acos(エイコス)というメインフレームの操作画面をFlexによって、Flash化したもの。メインフレームの画面そのものの見た目。黒地に緑の文字。マウス操作は想定されていなくて、基本的にファンクションキーと矢印キーとタブによるテキストフォーム移動。今の若い方々にはWindowsが立ち上がる前にF2とか押したときのみに見ることができるDOS設定画面といった方がイメージし易いだろうか。そのインタフェースが古臭いとか言うのではない。マウスがない時代に作られた画面なのである。それがそのまま再現されている。メニュー画面で数字がふられているが、その数字やその文言をクリックしても何も起こらない。下にあるテキスト入力欄にその数字を書き込むか、割り当てられたファンクションキーを押下することで次の画面に移る。この画面がFlashでできている。右ボタンを押すとFlashの設定メニューが当たり前のように表示される。
更に驚きなのは、そのデモの作られ方である。メインフレーム時代も画面設計というのは、内部のデータ処理ロジックの記述とは別個に進められた。画面定義ファイルというユーザインタフェース(UI)部分だけをまとめたファイルでデザイン(設計)している。その画面定義ファイルをMXMLに自動変換したのだ。これはSIerにとってとてつもないインパクトがある。過去の、もはや捨て去るしかなかった画面定義ファイルがそのままMXMLに変換できて、Flashという最新技術をまとうことができるのだ。既にメインフレームとWebシステムとを融合させる部分はできている。UI部分だけがネックになっていたといっても良い。様々な記述方法が存在する(デザイン要素が複雑に絡み合っている)HTMLに、従来の画面設定ファイルを自動で変換することには無理があったし、陳腐なHTML画面を作れてもマーケティングインパクトに欠けるのだ。それがFlexのおかげで可能になり、スポットライトを受けるに値するように見えてきた。
但し、問題点だという理由はここにある。近年、デザイナへの投資を渋り、社外に出ないようなイントラ系サイトの開発はエンジニアだけで行われることが少なくない。こうした開発エンジニアがデザインの教育を受けていないばかりか、デザインそのものに興味がない場合も稀ではない。こうした状況下で、ただコード(MXML)を記述するだけでFlexがswf(Flash)を生成できてしまうインパクトに頭を抱えてしまう。コードで書けるということはコピーペーストがいとも簡単にできるということであり、HTMLのデザインガイドを遵守するようなこともできないエンジニアがそうした武器を手に入れた場合何が起こるのかは火を見るより明らかだろう。
メインフレーム時代は、多々ある制約の中で少しでも使い勝手を考えるということがその画面設計スキルであった。方眼紙に何度も試作してそれから座標情報をベースにコーディングしていく。不自由な中にもUIに対する敬意が含まれていた。しかし今はそれはない。便利なツールのおかげで、ただドラッグするだけでいとも簡単にUIを生成できてしまう。デザインやユーザビリティを考えなくても画面は作れる。
FlashをFlexに押し上げた力は、多分正統な時流と呼べるだろう。魅力的といっても良い。しかし、それを受け入れるだけの素地がエンジニアにはまだ備わっていない。その意味でFlexはパンドラの箱だ。中に未来のカケラがあろうとも、それを見るまでに悪しきモノが山のように出てしまう予感がする。 MAXの会場で、そのデモを見てから暫く考え込んだ。そのデモ自体には文句のつけようがない。見事と思う。しかし、そこから派生するFlashアプリは本当に「Flash」なのか。「豊かなユーザ体験を提供するFlash」なのか。一晩考えて出た結論は、「NO」だった。Flexが市場に出たあたりから、swf=Flashという図式が崩れるのかもしれない。「Flash」という言葉はもはや単一企業の製品や技術を指さなくなるかもしれない。ティッシュが米国では某製品名で呼ばれるように。何でコーディングされたかがその価値を決めない時代に入ろうとしている。どれだけユーザのことを考えて開発されたのか、それがWebアプリの基準になっていくのかもしれない。
「Flashかどうか」ではない、「良いFlashかどうか」。そう「良いWebシステムかどうか」に原点回帰しているだけなのか。昔大きらいだったレポートの名が浮かんでくる、「Flash 99% Bad」。

様々な懐かしい顔や大御所さん達との出会い、立ち止まること、先を見回すこと、様々な機会を与えてくれた MAX に感謝。

以上。/mitsui

コラム No. 51

睡眠学習

Ridualの販売(2003/6)を開始し、オンライン販売開始(2004/2)に至るまで学校行脚を幾つかしていた。専門学校から大学まで。久々の「学校」である。特に専門学校生に対して、Ridualを語るとき面白い感慨に触れることができた。

高校卒業したてから数年のレンジの学生が集う。勿論今まで話をさせて頂いた中で一番若い年齢層。Ridual はWeb制作のプロを対象ユーザとして開発しているので、そもそもかなりの場違いだ。更に学校側の都合もあって、決してWebを指向した生徒さん達だけではなかった。斜陽とまでは言わないが、最近の沈滞気味のWeb業界を端的に感じる。人気はやはり3Dからゲームの方向だそうで、そちらをメインにしている若者が多かったと聞いた。人数的には50人前後。そんな彼らを相手に、1.5時間から3時間程度の話をする。

講義が始まる。最初は、そもそも”NRI(野村総合研究所)”の名さえ知らないという点から、生徒達が少し興味をもって視線を注ぐ。「”研究所”って何屋さん?」が本音か。しかし、私の語り口自体が余り親切でないのかもしれないが、徐々に脱落していく。早く時間経たないかなぁ、他の事しよう、あ~つまんねぇ、様々な本音がそのまま顔に出て来る。いたって正直。睡魔と格闘もせずそのまま腕を組んで寝込む子もいるし、それに気がつき私に気を使って起こして廻る先生方がいる。ただただ睡魔と戦って頭を上下し続ける子や、ただ姿勢を保つだけに集中している子や、いかに寝ていることを他に悟られないでいられるかに長けている子もいる。決してまじめな方ではなかった自分の今までの学生生活を凝縮したような光景だ。それにしても教壇というのは何でもよく見えるものだ。先生にはバレないなんてことは実はなかったんだろう。過去の先生方に「すみません」と心の中で謝ってしまった。

勿論全員が退屈し切っていた訳ではない。2~3割の生徒が頬杖をつきながらも興味を持ち続けて終了の時間を迎え、どの学校でも最低1割程度が目を輝かせてこちらを見つめてくれた。この辺りは狙い通りといった感じだ。Ridualは決して万人受けするツールではない。サイト内の導線を視覚的に捉えたり、使用しているリソースを一覧表でチェックしようとする者が大多数になるはずがない。それはどこまでWebサイト制作を長期的に見ているかで決まってくる。一回きりの制作で満足する人には、Ridual的な考え方は回りくどくて面倒なだけだろう。思いついたアイデアが「揮発」する前に形にして行く、そんなやり方の方が直感的だ。しかし、それを繰り返す時に無駄な作業が発生していく。だから作業の標準化やワークフローという考え方が必要になってくる。誰が誰と組んでも、あるレベルの品質は保証できるような体制つくり。自分の個性はその上に築いて行くモノ、という段階的戦略。そこを指向するのは1割程度だと考えている。

20歳前後の若者にそんな話をする。くどくどと説教する爺さんになった気分だ。まだ走り出してもいない子に、こけた時にはどうすれば良いかを諭す役。話しながら場違いを自覚する。でも、1割の子達の視線が熱い。真剣に見つめてくれる。身が締まる、背筋がシャンとする気分。私が話す言葉が、種となり、いつか芽を出し大きな見事な実をつけるかもしれないというワクワク感。見事な実がなっても、当人達は私の話を聞いたことも憶えてもいないだろうけれど、そんな自分の子育てに通じるような教育の現場。でも、そんな状況から、いつか今の不毛な作業を強いるWeb開発環境が変わっていくだろうという期待感。万感の思いを勝手に夢想しながら、声をふりしぼって話をした。

何回かの休憩時間の間にも、人間観察をする。つまらなかったとアクビをする子もいるけれど、今話されたことは何だろうと考え込む子もいる。今までWebデザインで学んできたことは、多分レイアウトとかグラフィックの話が中心だろう。Ridualの文脈ではそこには触れない。そもそもRidualはページ内のデザインには原則的にはノータッチのツールだ。そこは既存のツールに全て任せている。その辺りの接点が混乱を招いているようだ。「こんなこと知って、何が”デザイン”できる訳?」と自問自答している。悩んでいる子は輝いて見える。

そんな禅問答に囚われない子もいる。Ridualのダウンロード機能を説明すると、まずそこから入ってくる。休憩時間に入って数分すると、「すっげー全部ダウンロードできちゃったよ」と歓声が上がる。本能に任せた画像をその場で落としてきていた。男子生徒が集って喜んでいる。別に不謹慎だとか思いもしないし、非難もしない。Webに興味を持つキッカケは千差万別だし、そこにフィルタを置くことにも意味を感じない。問題はその子がどこで満足するかなんだと思う。興味のままに画像を集める。それを整理したくなり、効率的な収集保存管理方法を模索する、そんな学習ルートもアリだろう。休憩時間になるなりそれを試そうとした子は、私の半ば抽象的な話を聞きながら何をどうやったら、今の話を自分のフィールドに持ち込めるのかという応用を思案していたのだ。

Web上の新しい技術を知るたびに、それを自分の仕事にどう適応できるのかを考える力は必須の能力。「自分のできること」を「今できること」に限定して考えることは誰もが陥り易い落とし穴だ。エンジニアでもデザイナでも、そんな考えの虜になっている人は山のようにいる。「今自分にできないこと」は無価値であると判を押し無視する。そのうちに自分自身が時流から取り残され無視されていく。方や「今自分ができないこと」は学べばよいのだと踏み出す者がいる。そうして踏み出し続ける者たちの中に、ただ新規さだけに囚われない「選球眼」が育まれる。汗し踏ん張る者の選球眼は鋭く研ぎ澄まされ、手を汚さず推測の評価を下す者は、ネット裏で嫌われる解説を繰り返す。ネット裏で輝く人もいるけれど稀だ。主人公は泥だらけのフィールドに居る。そんな主人公(ヒーロー)達が目の前の若者から生れる出るのかもしれない。

久々の教育の現場は、私にとって刺激の連続だった。図書館で調べるしかない時代に学んできた私にとって、若い学生の反応も刺激の一つだ。私の時代でも少しは兆候があったが、学生は語る者の肩書きなんぞに目もくれない。話が面白いか、興味が持てるかだけが決め手だ。ネットが商流の中抜きを進めているように、知識や技術の伝達経路でも同じことが起こっているように感じる。ありきたりの知識は、検索すれば出てくる。大事な「時間」を使って聞く価値がある「授業・講義」なのかどうか。壇上に立つ者の覚悟が益々問われているのだろう。私は所詮この数時間のピンチピッターという言い訳を確保しながら、そんなことを考えていた。

睡眠学習をやり遂げた学生に対しては何の怒りも感じなかった。睡魔を防ぐ手助けとして、コックリ比率が上がると実習を交えて、少しの手助けをしたが、寝る子はそのままにするしかない。私のプレゼン能力にも左右されることだから、一概に責める訳にも行かぬ。でも多分そんなことより、少し羨ましかったのだと思う。学ぶだけで一日を終えて良い時代。学生だけの特権。冬に困ろうが夏に遊び呆けるキリギリスへの羨望。いつか蟻のようになるのなら、許される時に精一杯羽を広げて寝てもいいんじゃないか、そんな思いが消せなかったのかもしれない。でも、いつか眠ることも許されない現場に駆り出される。そして、それを充実と呼ぶ。そう呼べる現場で働きたい。

Ridualの開発コンセプトや生い立ちを話しながら、Ridual自身の能力がまだ満足できる域まで至っていないことにも触れる。でも始まりのないところからは何も生れない。Ridualはもう直ぐ1歳になろうとしている。V2の仕様と現在格闘中だ。夢だけはどんどんと広がってる。でき得るだけ早くその姿もレポートしたい。

Webについて大方のことは分かっている錯覚に落ちっていたことを最近痛感している。学ばなければいけない事が雪崩のように押し寄せている。平静さを保っているかのように見えるWeb業界が不気味に感じる程だ。キーワードは「アクセシビリティ」。今までのやり方が通じない。教える立場に立てない程足元が揺れている。最近の学生はなどと言っていられない。私も学ぶ側だ。

以上。/mitsui