コラム No. 70

トロン

トロンと聞いて心の中で「頑張れ」と呟く業界人は未だいるように思う。 十年程前この国産OSを学校に導入する計画があった。それに対して輸入障壁だと異議を唱える「外圧」によって、この計画はあっけなく頓挫する 。この時点で、トロン支援派は三つのグループに分かれる。トロン支持層、国産支持層、そしてその外圧母体を嫌うが故の支持層。

トロンは国産という「ブランド」がなくても充分に興味深い機能を持っていて、トロン支持層はかなり強固なものだと言って良い。しかし、この頓挫が響き、パソコンOSとしての表舞台からは事実上消えていった。でも、年に一度は取り上げる雑誌が現れ、PDA用OSとして現れたり、ファンの期待感を維持してきた。

トロンの特徴の第一は、その軽さ。より重厚に、より高性能CPU的に、と深化を続ける業界にあって、トロンは明らかに異なる方向性を持っていた。そして、トロンは適応分野によって幾つかに分化する。その中で、最も軽さに着目して進んでいったのが、現在「Tエンジン」と呼ばれるモノであり、「組込み」の世界での標準と呼ばれる地位に達している(シェア9割以上)。

私達の生活を支えてくれるモノには、CPUや消費電力がかなり小さいのに、ある程度の演算処理をしてくれるモノが多数存在する。その標準インフラにトロンは事実上なっている。代表はRFID、IDタグと言ったほうが分かりやすいか。究極的には全てのモノにこのRFIDがついていて、ある決まった手続きに沿った尋ね方をすると答えが返ってくる世の中を目指す。野菜に聴けば、生産者を答えてくれ、牛乳に聴けば生産日を答えてくれる。自分が身につければ、かなり柔軟な自己紹介マシンになり、セキュリティ系にも活用できる。

そうした状態をユビキタスと呼ぶ。鳥や虫の声を聴いて、庄屋の娘の命を救う「聞き耳頭巾(ききみみずきん)」状態と言ってもいいのかもしれない。ユビキタスをどこでも通信できる、ネットできると解釈するよりは現実味があるように感じる。何しろ、そのIDタグの単価が凄いスピードで下がっているからだ。全製品に行き渡るには時間がかかるだろうが、限定的な実現は全然夢物語ではなくなってきている。

そんな話を、Macromedia Flash Conference 204(2004/10/22)のキーノートで坂村教授が熱く語っていた。Flashとトロン、その接点は「組込み」。既に多くのデバイスにFlash Playerは搭載されている。液晶さえあれば、様々なユーザインターフェイス(UI)がFlashだけで作れてしまう。軽さを目指す分野のベストマッチングの好例と言える。

でも、坂村氏のメッセージは、そんな技術動向の紹介ではなかった。デザイナに対する新しい分野への「お誘い」だった。

自分の身の回りにある全てのモノが自分が何物であるかを自己紹介しだす世界、交差点自体が自分がどことどこの接点であるかを説明できる世界、商品にかざせばそのCM映像がその場で見れる世界。RFIDはそんな世界の入り口であり、現時点で基本動作はしている状態だ。そこで、そうした情報を、どのように「伝える」のか。子供だましのオモチャが録音テープをオウム返しする状態は期待されていない。自己表現する物体を人間が分かりやすく受け取れるようにする「フィルタ」が必要になってくる。情報の視覚化というUI。

情報の視覚化というとグラフを頭に浮かべる方も多いだろう。多くの数字データを一目で分からせるには、棒グラフやパイチャートが良く使われる。では、天気予報系だとどうだろう。晴れを「晴れ」と書くよりは、太陽マークの方が伝わり易い。では、その配置はどうだろうか。…そう考えると実は多くのデザイン要素が絡み合って、「分かり易さ」は構成されている。

聞き耳頭巾ON状態は、膨大な情報に囲まれることを意味している。しかし、そのままでは人間は判断に疲れてしまう。判断を支援するツールが必ずや求められる。その発想は、数値データの正確さを求め続けるエンジニア系からは生まれない。ユーザビリティや使いやすさを求めるデザイナの領域から生まれてくる。そんな読みの下でのお誘いだろう。

但し、実際にその会場には、6割強がデザイナ系、3割ちょっとがエンジニア系だったと思うが、半分ほどが睡魔に負けていたように思う。自分達とは関係のない話に映ったのだろう。ボタン配置系の画面設計や画像編集系の人には、そう見えるのかもしれない。

それでも1割強の人達は目を輝かせてステージを見つめていただろう。次の世界をもう夢想し始めている人達が何人もいたはずだ。大きな種まきの瞬間だったように思う。

IDタグの製造コストが下がり、reader/writerの環境がそろい、より詳細な情報を配信するサーバの構想が進み、あとはUIを待つばかりの状態といっても良い。しかも、これら全てが一緒に完成し始めないと動かない流れが、見える。

これはデザイナとエンジニアの双方にとって、チャンスであり分かれ道である。今まで無関係と思ってきた新しい世界に足を踏み入れるのか、それとも今できることに執着して留まるのか。新しく見える世界を一過性の流行のように捉えて留まるのか、人生を賭けるような動きをするのか。今後の世界がどう変わって行くのかをどう判断し自分の進む道を決断するかを見定める必要が出てきている。

今まで、ネットと呼ばれるものは、何かにアクセスしていく「先」にあるものというイメージがある。RFIDの世界は、自分の周りに既に「ネット」が存在することを自覚させる。何かしらのセンサーがありさえすれば、自分の周りが様々な自己主張の声に満たされているのが見えるのだ。それがどれだけ便利なのか、どれだけ必要なのか、どれだけ実現すべきなのか、考え始めても良い時期かもしれない。

この十年のネットの進歩を考えると、今後の十年で「ネット」と呼ばれるものの概念自体に変化がきても不思議ではない。その時、デザイナは何処に立つのだろう、エンジニアは?

以上。/mitsui

コラム No. 69

震災

阪神淡路大震災の1週間後、私は神戸にいた。今まで、自慢話のような気がして友人にも話すのを躊躇していたのだが、やはり残しておこうと思う。

あの震災を知ったのは、昼過ぎにたまたまTVをつけた時だった。映し出されたモノが、倒れた高速道路であると理解することにすら時間がかかったのを憶えている。当時、父が大阪天王寺区に住んでいて、何度も電話をしたがつながらなかった。数日後、父が無事であることを知るが、何かじっとしていられない気分だった。その前の月に前職を希望退職制度で辞め、無職の状態だったのも関係した。

一週間後、通っている教会の牧師から連絡が来た。夕方の4時頃だったと思うが、「今から神戸に行くことにした、一緒に来るかどうか一時間で決めてくれ」。車中に二泊、神戸には三日間、計五泊の予定だった。米国人宣教師二人が交代で運転するという。

計五人がバンに乗り込み神戸に向かった。神戸では現地の教会に寝泊りさせてもらって、指示された「現場」に通った。教派的には異なる教会が現場だった。大きな教会堂は塔の部分に縦に亀裂が入り、横にあったという建物が全壊していた。三日間、その全壊した場所約150坪を更地にし、残った教会堂の横に炊き出しをする小屋を作る手伝いをした。同伴した宣教師はプロ並みの大工だったことと、その教会の牧師が巨大なショベルカーを運転できたので、もう少しでどちらも完成というところまで進めた。

毎日砂ぼこりの中で休む間もなく働いた。毎日泥だらけになり、へとへとで話をする気力もなかった。でも最後の日も日が暮れてもなお炊き出し小屋の屋根に釘を打った。実動三日間を最大限活用しようと意地になっていたのかもしれないし、この日が終われば「家」に帰るだけだったからエネルギーを残しておく必要は無かった。ただ車に乗れば良いだけだった。

最終日の昼食時にその教会の方が近づいてきて、不思議そうに質問された。「何故見ず知らずの私達にそんなにしてくれるのですか」と。その時の不思議そうな顔が今でも忘れられない。でも多分私も不思議そうな顔をしたのだと思う。自分達が彼らを助けているという意識は殆どなかった。

正確に言うと、何かできると思って神戸に向かった。しかし、直接的に人を助けることなんてできないと思い知らされた。声をかけることもはばかられた。言葉を選べなかったから。でもその時に自覚したことがある。私達のしたことは、更地作りを手伝ったことでも、炊き出し小屋を作ったことでもなく、ただ頑張る姿を見せたことなんだと。

瓦礫の山だった約150坪が更地になったことよりも、炊き出し小屋ができたことよりも、見ず知らずの数人が毎日ヘトヘトになりながら作業をしている姿に意味があったのだと思う。

実際、炊き出しを計画できるのだから、その場には食事も水も食べ物も、それなりに存在した。同系列の教会からの支援が集っていたからだ。だから、その教会の人たちがやる気になっていれば、更地も小屋も似たような時間内で出来たに違いない。理屈では。

でも、やる気になれないのだ。力がでないのだ。そして、それは誰にも責められない。宣教師の勧めで少しは破壊された街を見て回った。焼け野原の中、様々な哀しい話も聞いた。体育館で寝泊りする人達にも会った。そこで思ったのは、「頑張れ」ってそう気軽に言える言葉ではないということだった。

今まで頑張って築いてきたモノがあっという間に破壊されたのである。そこを更に生き抜くには頑張るしかないと頭で分かっていても、やはり力が入らない。人の頭はスイッチのようには行かない。時間が必要だ。

そんな時、私たちのような「帰る場所」がある人間が役立てる。あと何日、あと何時間でこの地を去ると決まっていれば、かなりの無理がきく。それらの積み重ねが、被災者達の「俺たちも頑張るか..」につながっていくのだと思えた。

今回の新潟の映像を見るたびに、息を呑む。今回私は時間的にも何もできない。でも、先日某Flash系企業の社長がボソッと言った。「RIAとかFlashとかやっているんだから、避難所にネットが来さえしていたら、ご老人達にも使い易い安否掲示板のようなものが提供できるんだよなぁ」。ドキリとした。

9年前の震災時には、ネットインフラはまだまだ高価だった。今はそれ程無理しなくても提供できる。パソコンもあの頃に比べれば早くて安いマシンが手に入る。開発技術も格段に上がってきている。ネットでできることも広がっていたんだ。

安否を知りたい、知らせたい人達からの情報を集積する。必要としているもの、送ろうとしているものの情報の整理をする。必要であれば、紙に印字できるようになっていても良い。連絡が取り合えた後も、その伝言の紙を握りしめて、精神的な糧にできるかもしれない。電話の言葉も力になるけれど、繰り返し読める文書も力になる。

勿論、生身の人間の暖かさに勝るものはない。でも、ネットもそれに近い何かを伝達できるようになって来ている。ネットのセールスポイントは、今も昔も、「時間も空間(場所)も超越できる」ことだ。何かできることはないか、そんな人間としての根幹を広げる道に、ネットは育っていける。

…新潟県中越地震で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます

以上。/mitsui